No.1072 令和3年8月号

井垣清明の書11

善 哉
昭和61年(一九八六年) 八月
北城書道会夏期練成会(松本市・牛伏寺)

釈 文
善哉(ぜんざい・よきかな)(『論語』顔淵第十二)
丙寅(ひのえとら)秋日、天晴、於金峰山牛伏寺川上(ほとり)。

流 水 抄   加古宗也


瀬田川に迫り出して汲む魦かな
親しきは八丁潜り浮御堂
うぐひすの法然院に詣でけり
この里を小椋と呼べり囀れる
囀りやへぎ板も売る木地師村
新しき巣箱や小鳥こぼれさう
古民家の梁は瘤持ち春炉焚く
幹のぼる水音を聞く入彼岸
西尾市東郊・東向寺に暁行句碑を訪ふ 五句
甲高き鰐口の音飛花落花
飛花落花秀石(ほいし)は上州三波石
観音は慈悲の眼を持ち暖かし
義元の首塚へ坂紫木蓮
補陀落や樒の花のよく匂ふ

真珠抄八月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


すれ違ふ地下鉄殺気立ちて夏         江川 貞代
鳰潜く水輪に浮巣揺れどほし         田口 風子
鹿の子の瞬時遅れて目を上げる        竹原多枝子
シーサーといふ名の魔除け花梯姑       市川 栄司
動くもの咥へ川鵜の水走り          鈴木こう子
あぢさゐに変化はじめの彩ひとつ       工藤 弘子
老鶯頻り対岸は美濃の国           烏野かつよ
噛み合はぬ会話じりじり炎天下        鈴木 玲子
竹皮を脱ぐテーピングまきなほす       磯村 通子
それらしきことも出来ずに父の日来      渡邊たけし
老鶯や家事にも慣れてきし男         鈴木 帰心
釣舟の浮巣を避けて進みけり         堀口 忠男
燕来る海辺の町のコンサート         水野 幸子
春休み靴から先に子は育つ          鶴田 和美
学校のチャイム気怠き麦の秋         長村 道子
霽れ際の雨きらきらと春の虹         平井 香
老鶯や崖に二本の太鎖            山田 和男
道を尋ねし人と歩きぬ麦の秋         加島 照子
紫陽花や風水好きの人に会ふ         高濱 聡光
短夜や長き一と日の始まりぬ         前田八世位
蛍追ふ人の賑はひ谷の闇           春山 泉
麦秋や手足を伸ばす畳の間          稲垣 まき
梅雨の晴隣家に干さる縄束子         桑山 撫子
十薬の匂ひにもなれ草を抜く         岡田 季男
田水張るこの一瞬の兜蝦           渡邊 悦子
むらさき麦その禾睫毛のごと長く       清水みな子
教へたくはないこれから月見草        大澤 萌衣
卓袱台で済ます宿題昭和の日         加島 孝允
首塚のうしろは奈落蛍飛ぶ          辻村 勅代
ラム酒が決め手桑の実のコンポート      原田 弘子

選後余滴  加古宗也


文豪も通ひし母校あふち咲く        鈴木 帰心
「文豪も通ひし母校」の一行に作者の誇りが熱く見てと
れて楽しい。吉良町の横須賀小学校(現在は西尾市立)は
作者が卒業した小学校であり、大先輩に尾﨑士郎がいる。
尾﨑士郎は、紆余曲折を経て、『人生劇場』など大衆小説
によって文豪と呼ばれる人気作家になった。作者の母方の
祖父は、尾﨑士郎と小学校の同級生で、勘当同然であった
士郎を戦後、いち早くふるさと横須賀村に、郷土の誇りと
して受け入れ、地元の士郎ファンの会(後援会)ともいう
べき「瓢山会」を結成している。横須賀小学校には今も校
門のところに大きな栴檀の木がたっており、春に花を咲か
せ、夏には大緑蔭を作っている。この句「も」がすこぶる
効果を上げており、樗の花を誇らしげに見上げる作者の姿
がくっきりと浮かび上がってくる。
ちなみに、毎年二月、尾﨑士郎の忌日句会である「瓢々
忌句会」(若竹吟社主催・吉良俳句の会主管)が開かれて
いるが、瓢々忌句会運営の中心として、活躍している作者
である。
酒肆ひしめくゴールデン街梅雨に入る    市川 栄司
「ゴールデン街」とは、「新宿ゴールデン街」と俗称され
るところで、文人・墨客の夜の溜り場だ。かつては、作家
や作家崩れが夜毎に集った呑み屋街で、作家はもとより文
芸を志す者もゴールデン街に足を踏み入れなければ一人前
になれない、と先輩たちにおどされて通うようになった人
も多かったようだ。その中に作家崩れもいたりしてそんな
人たちのほら話を聞くのも楽しいところだ。この句「梅雨
に入る」に人の心の屈折が見てとれて力がある。
麦秋の光の中来下校の子          辻村 勅代
麦秋の明るさは格別のものだ。私は稲穂の明るさとは全
く異なった明るさとみる。下校の子の登場によってその光
が西日であることがわかる。西日に照らされた麦の穂波。
麦秋の頃の空気感も私には心地よいもので、そこには童謡
にみるような健康な空気感がある。「光の中」とは見事な
把握だ。
卓袱台で済ます宿題昭和の日        加島 孝充
「昭和の日」はかつての「みどりの日」で、さらにその
ルーツをたずねると昭和天皇の誕生日ということになる。
昭和という時代は、その前半は戦争の時代であり、後半は
貧困の中から日本が見事に復興した時代だった。そして、
それに重なるように「豊食の時代」という言葉が流行した。
それは貧困からの脱却をめざすという日本国民の総意とも
いうべきものだった。我儘を言わないこと、一にも二にも
我慢。作者の少年時代はまさにそんな時代だったと思う。
また、この程度の我慢は当り前だと少年たちは普通に考え、
普通にやってきた。卓袱台があるだけで幸せだと。そして、
この時代が人生のうちで一番しあわせだったのかも、と思
えてくる。
おでこ全開バトンを握りしめて夏      大澤 萌衣
「おでこ全開」が言い得て妙だ。外観の描写として優れ
ているだけでなく、走者の内面の描写にまで及んでいるの
がいい。その昔、といっても先の東京五輪の記録映画を思
い出した。市川昆監督が担当したこの映画は記録映画とし
ては前衛的過ぎる、と当時かなり批判的な声があがったが、
私はそうは思わなかった。市川作品はそれまでの記録映画
と一線を画したもので、内面描写を大切にしたものだった。
そして、何よりも映像が美しかった。鬼城の俳句も外見の
描写にとどまらず、対象の内面の描写にまで及んでいたこ
とに注目したい。
動くもの咥へ川鵜の水走り         鈴木こう子
鵜が川魚を捕獲するときの様子がダイナミックに描写さ
れている。鵜が魚を捕らえたあと、そのまま水面を辷るよ
うに飛ぶ姿は狩人としての鵜の執念をみせつけるものだ。
そして、水を割り水を飛ばす光景はじつに美しい。上の句
の「動くもの」に生存競争、あるいは弱肉強食という自然
界の無情も見てとれ、せつなさすらおぼえる一句だ。
老鶯や崖に二本の太鎖           山田 和男
夏山登山の折りの一駒を一句にしたもの。老鶯の美しく
ゆったりとした鳴き声と鎖に命をかけた崖のぼりの相反す
るものが見事に調和した一句だ。「二本の」の「二本」、「太
鎖」の「太」がある種の緊張感を持って読者に迫る。俳句
は直感の詩という。まさに直感がぴたりと決まった一句だ。
道を尋ねし人と歩きぬ麦の秋        加島 照子
私も同じ方へ行くのでご一緒しましょう。その時の暖か
さは何ともうれしく、人間万歳と思う。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(六月号より)


枝垂桜門をいざなふやうに咲く        髙橋 冬竹
はじめ、「門へいざなふやうに」と読みましたが、掲句は
「門を」。風に揺れる枝垂桜の枝の動きを、誘うように捉えた
のでしょう。誘われているのは門。動かない門をうながすよ
うに、誘導するように。それほどの枝垂桜の存在感。句末の
「咲く」が、堂々とした桜の佇まいを伝えているようです。
駐車場有料となり磯開き           岡田 季男
この光景は紅葉の頃の香嵐渓と重なります。行楽客等を当
て込んでの有料化です。海藻や貝など海の幸が採取解禁され
る「磯開き」。磯遊び開始の意もあるようです。いよいよと
いう期待感と共に、浜は活気が溢れ賑やかになるのでしょう。
あまおうを買ひたし春の上天気        白木 紀子
以前、博多土産にあまおうを使ったスイーツを貰ったとき、
それはそれは高級な苺と知りました。「甘王」ではなく、あ
まい、まるい、おおきい、うまいの頭の一字をとった名前。ブ
ランド苺に手を伸ばしたくなる、気分も上々の春の陽気です。
鍬ふるふ種まきの雨まちにけり        桑山 撫子
「ふるふ」がふるってます。実際に鍬を持って振る動きと、
存分に発揮する力の感じも加わり、その充実した気力が「ま
ちにけり」から伝わります。お天気次第の畑仕事。お天道様
と近いところにある暮らしぶりが窺えます。
たわいなき用で娘が来る豆の花        米津季恵野
娘だからでしょう。大した用事がなくても顔を見せる娘と
母の、ほどよい関係が垣間見えます。豌豆の花は色も形状も
かわいく、伸びた蔓は先でしっかり巻きつきます。娘さんと
のあいだの、何気ないけれど確かなつながりも感じます。
老妻の愛せし柿の若葉かな          鈴木 里士
つややかで清純。柿の若葉は、若葉の中でも殊に美しい萌
黄色です。年を重ねても変わらない、また苦楽をともにして
きた妻を想う作者の気持ちに、柿の若葉のみずみずしさが重
なります。清らかな慕情を感じる佳句です。
鞄より湯呑出てくる春の昼          田口 茉於
マイ箸ならぬ、マイ湯呑でしょうか。それとも何か曰くが
ある一品?まるで手品の箱のような鞄です。湯呑が鞄から出
てくるという、意外性、この面白さ。それで充分。春風駘蕩、
のどかな気分に不思議に合って。
靴下の穴の親指春の風            鈴木 恭美
「こんにちは親指クン。」と挨拶したくなります。親指の穴
から覗く爪が顔のようで、かわいらしい。靴を脱がざるを得
ない状況だったのでしょうか。ちょっぴり恥ずかしくもあり
ますが、そこにはあたたかな春の風がやさしく吹いています。
平釜の松風を聴く春障子           吉見 ひで
「松風」は茶の湯の沸き加減の一つ。調べてみると、蟹の目
のような小さな泡の「蟹眼(かいがん)」や魚の目のような大
きな泡の「魚眼、魚目」等、流派によって違いはあるものの、
面白い呼称です。でも何より、お湯を沸かす音が心を落ち着
かせる、という茶道のこころ。そして「松風(しょうふう)」
はお茶に一番適したよい温度とのこと。西尾在住の作者、お
茶処ならではの、明るい風情が漂う春障子です。
惜春や過去薄れ行く友と逢ふ         藤井 歌子
切なさの一句。きっとこの友達とは、よい時間を共に過ご
した仲なのでしょう。二人に共通の思い出は、過去の記憶の
中にあるもの。楽しかった思い出も、今はぼんやりと遠のい
て。万物流転、諸行無常。なればこそ、今このひとときを。
できぬことまた増えて花見るふたり      田村 清美
誰しも寄る年波には勝てず、できないことも増えていきま
すが、それを嘆かずに受け入れ、許容している鷹揚さが、花
を見る心に適っているようです。同じ時と場を共有してきた
もの同士、二人の間に通うしみじみとした情感、桜の美しさ。
朝日さす桜やしばし黄金色          生田 令子
目にされた桜は、薄ピンクではなく黄金色。お日さまの光
に照らされた朝のいっとき。この木には桜の精がいるような、
そんな神々しさを感じます。実景ならではの諷詠。
うららかや棟梁は今産休中          長坂 尚子
最後まで読んで意表を突かれました。この棟梁はいわゆる
イクメン(育児に積極的な男性)それとも女棟梁でしょうか。
いずれにせよ、春の光に輝く明るさが全体を包んでいます。
背後にはみどり児の存在もほのぼのと。何とも心地よい春。
亀鳴くや嫌いだけども好きな人       岡本たんぽぽ
「だけども」このごつごつ感が、生の気持ちを伝えていま
す。「嫌いだけれど」と滑らかに整えてしまえば、逆に何だ
かきれいすぎるような。もどかしいような、割り切れない気
持ちに、亀の鳴く声も聞こえるでしょうか。

〈訂正〉六月号五十六頁の本欄、下段の一行目「海と」の二
字が誤りでしたので、削除訂正いたします。

俳句常夜灯   堀田朋子


いつの日か子を生むひとと花時雨       五十嵐秀彦
(『俳句四季』六月号「北方花譜」より)
北海道在住の作者が、その地の春夏に咲く花々に心を寄せ
て詠んだ十五句中の最初の一句。上五・中七の修辞に惹かれ
て取らせていただいた。若者でもなく老年でもない、性とし
て微妙な時期にある男性ならではの表現に真実を感じた。
このうら若き女性は、きっと作者にとって魅力的な人なの
だろう。ただ若さだけを恃むのではなく、人生を豊かで潤い
を持って生きていくだろうと予感させるような女性ではなか
ろうか。その女性が持つ未来への無限の可能性を意識しつつ、
共に過ごす「花時雨」の時間は、作者の心を甘く華やかせて
いるのだ。掲句の瑞々しい情感は、生と性への肯定感に満ち
ている。
紋白蝶のせて傾く花ばかり          中根 美保
(『俳句四季』六月号「梨の花」より)
「紋白蝶」は、野原や畑で普通に見かける馴染み深い蝶だ。
花から花へと吸蜜してまわる姿は、せわしそうでもあり、気
儘そうでもあり、愛らしくて目で追ってしまうこともしばし
ばだ。作者もじっと見つめていたのだろう。そして気が付い
たのだ。蝶に訪われるとどの花も傾くことに。「傾く花ばかり」
と言い切った明快さが、作者の発見の喜びを表している。花
びらのように可憐な紋白蝶にも確かな重さがある。蝶は蜜を
吸うために、自分の全体重を花に預けている。花はそんな蝶
を丸ごと受け止めている。二者の共助の関係性を〝花の傾き〟
という具象で言いとめたことは秀逸だ。
自然界に繰り広げられている真実の一つに触れることは、
私たちを豊かな気持ちにする。襟を正したくなるような敬虔
さを感じる。俳句的なまなざしとはそういうものだと思う。
空蟬の目の玉泥の乾きけり          田口 紅子
(『俳壇』六月号「山の闇」より)
掲句もまた、俳句的なまなざしによって掬い取られた句で
あろう。作者の視線は、抜け殻の目の辺りで乾いている泥に
一点集中している。
思いは自然と幼虫の地下生活へと向かう。その期間は数年
から十数年にも及び、反して地上に出てからは、十日から
二十日ほどの命であることは、周知のこと。人はついつい蟬
の生き様と己を比べて感慨に浸る。殻を脱いだ後の蟬は、次
世代へと命を繋ぐために懸命に声をあげ続ける。もう後のな
いかのように生き急ぐ姿は、こちらを息苦しくさえする。何
のための生なのだろうかと。けれど、作者の目前で「泥」は、
からりと乾いているのだ。蟬は蟬の生き方を全うしているの
だなという、作者の「空蟬」へのしみじみとした理解を感じ
とることができる。確かな観察眼が、源氏物語的な感傷を越
えて、句をリアルに立ち上がらせている。
遮断機のかなたに薔薇の国がある       櫂 未知子
(『俳壇』六月号「薔薇の国」より)
「薔薇の国がある」という断定には、作者の確かな希求が
ある。実際に薔薇が咲き満ちていてもいいが、掲句の「薔薇
の国」は、日常を越えた陶酔の国の隠喩と読みたい。そう思
えるくらいに、薔薇は特別な花だから。
けれども、そこへたどり着くには、越えねばならないもの
がある。まずは「遮断機」だ。このどこにでもある、誰をも
足止めする棒の前では、逸る気持ちを抑えて待たねばならな
い。待つことで、「薔薇の国」への期待は一層膨れ上がるこ
とになる。そして、たとえ遮断機があがっても、その国は今
だ「かなたに」あって、まだ見えないという。
求めることの渇望、それを阻むものへの焦燥。句の奥に隠
されているものにドキドキさせられた。
足跡の先端に人春惜しむ           掛井 広通
(『俳句四季』六月号「砂丘」より)
光景の再現性が高い句だと思う。海を眼前にした大砂丘。
砂紋を崩しながら一筋の足跡が続いている。きっと海へと向
かっているのだろう。その人が立ち止まっている所が、「足
跡の先端」だ。当たり前のことを当たり前に表現すると、こ
んなにも意味深くなるのだと意表を突かれる。その人が、も
うそれ以上進めなくてその地点に佇んでいるのがわかる。遠
くからも注視せずにはおれない風情を発しているのだろう。
作者は、その人が春を惜しんでいるように感じられたのだ。
砂丘に立つとは、その形成までの長い時間を思えば、悠久
の時の流れの先端に立つような気持ちになるのではなかろう
か。海と風と砂丘の只中、人は、自己の心だけを抱えた只の
淋しい人になるのだ。惜春とは、麗しい淋しさだと感じた。
大き衿をいまも好みて梨の花         藤田 直子
(『俳句四季』六月号「女神橋」より)
「梨の花」がとても効果的に斡旋されている。その真っ白
な美しさが、掲句を無垢な清純さで満たしている。この衿は
やはり白であるべきだろう。昭和のあの頃、女の子たちは、
白い大きな衿を持つブラウスを着ていたように思う。上に羽
織ったジャケットやカーディガンから丁寧に衿を引き出して
着ていた。その衿は、自身の顔を引き立たせてくれた。
もっと言えば、その大きくて白い衿は、母親の手になる洗
濯とアイロンがけを経ていたのだと思い到るのだ。幸せな幼
年期へのノスタルジーが、「梨の花」で縁取られている。