No.1074 令和3年10月号

井垣清明の書

 

 

有教無類
昭和62年(一九八七年) 十一月
跡見学園女子大学紫ゆかりさい祭賛助出品(個人蔵)

釈 文
教(おしえ)ありて類なし。
(『論語』衛靈公第十五)

流 水 抄   加古宗也


根周りは十尋と少し楠若葉
杏早や実となり版木彫る男
夕餉にははらから揃ひ豆御飯
老鶯や拭き艶しるき男神
葭切やこきこき鳴れる一丁艪
五月雨や煤けしままの㾱れ窯
蹲踞の水呑んでをり瑠璃とかげ
奈良にて
遠くには黄金(くがね)の鴟尾や袋角
大山(だいせん)の裾まで青し麦を刈る
梅雨寒や鯉の頭を出刃で割る
山の水溜めし生簀や濁り鯉
七変化咲かせて路地の散髪屋
夏雲雀湖岸道路に道の駅
鳰浮巣そばを路音の通り過ぐ
本宮山下山途中の鮎料理
下野草や熔岩に刻めるうしほの句
たつぷりと屁草咲かせて尼主従
苦瓜のはじけ茘枝と呼ばれけり
犬山は尾張の出城さくら実に
若鮎のはねて姉川河口堰

真珠抄十月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


介護にも看護にも無し夏休み        鈴木こう子
濁酒野趣も馳走のまたぎ村         市川 栄司
白南風や桑名の鶴の折り手順        田口 風子
介護士はつねに小走り鉦叩         鈴木 玲子
静かなる群衆八月十五日          大澤 萌衣
秋の雨抱きて歩めるチェロケース      酒井 英子
墓洗ふ平家の裔を諾ひつ          高橋 冬竹
遊ぼうと蚊帳吊草をさしだしぬ       荻野 杏子
盆休み擬古物語口訳す           荒川 洋子
金秋や孔雀の羽根の歯黒筆         今泉かの子
走り茶や濁手薄き唇あたり         江川 貞代
手離すと決めたるもあり土用干       工藤 弘子
夏休み婆の初恋聞きたがる         池田あや美
小さき子は撃たれてばかり水鉄砲      酒井 杉也
朝顔のこと書いてあり空色と        竹原多枝子
鱝(えい)釣れり爺の力の勝りたり     岡田 季男
白杖の忙しく響く猛暑かな         岩瀬うえの
手水手拭まつ白沙羅は咲き終る       三矢らく子
フクシマの桃の甘さよはらからよ      石崎 白泉
緑蔭や込み合つてゐるきしめん屋      生田 令子
梅雨晴間急ぎ小庭に傘を干す        関口 一秀
九段坂濡れて八月十五日          鈴木 恭美
掃苔や今日東京へ帰る娘と         山科 和子
白髪のひとのピアスや風涼し        高柳由利子
嫉妬とはこびり付くもの髪洗ふ       渡邊 悦子
風鈴の音色もつるる江戸南部        今津 律子
黙祷のあと八月の動き出す         中井 光瞬
山里に赤とんぼ来て夕暮に         伊藤 恵美
汗が目に買物袋両の手に          岩瀬みその
婿達のお国訛りや盆の入り         磯貝 恵子

選後余滴  加古宗也


嫉妬とはこびり付くもの髪洗ふ       渡邊 悦子
人間にとって嫉妬ほど、御し難いものはない。「広辞苑」
には①自分よりすぐれた者をねたみそねむこと②自分の愛
する者の愛情が他に向くのをうらやみ憎むこと。また、そ
の感情。りんき。やきもち。とある。昔から女性はやきも
ちやきといわれるが、やきもちは女性ばかりではない。男
性にもある。男性の場合はそれが権力闘争として現れたり、
暴力になったりして、女性よりも激しく困った事態を招く
場合がある。嫉妬心が燃えあがったときは髪を洗うのがい
い、とこの句は教えてくれているが、男女関係だけではな
く様ざまなところで妬心は湧く。ゆえに髪を洗うだけでは
消えない場合も多かろうと思う。ごしごしと洗うべし。「こ
びりつく」に強い実感がある。
黙祷のあと八月の動き出す         中井 光瞬
「黙祷」は原爆忌のそれであることはあきらかな一句だ。
昭和二十年八月六日、広島市に世界最初の原子爆弾が投下
された。広島市民はこの日、原爆によって亡くなった多く
の市民に対して黙とうをささげる。それは世界平和を祈念
する黙祷でもある。この句、黙祷によってはじめて広島市
民の八月は始まるということであると同時に、原爆許すま
じ、戦争許すまじというメッセージを世界に発する日であ
ることを広島市民は強く思っている。《被爆樹の陰が痩て
いる今朝の秋》《伝えねば言霊も死す原爆忌》《原爆忌その
日数へで十二歳》。広島忌の三日後、即ち、八月九日には
長崎に原爆が投下された。六日を広島忌、九日を長崎忌と
いい、「原爆忌」「原爆の日」でそれぞれをさす場合もあり、
二つをさしていう場合もある。つまり、作者がその時、い
ずれの思いで原爆忌を詠んだか、ということだ。
白南風や桑名の鶴の折り手順        田口 風子
三重県の桑名市には古くから千羽鶴を折る人が多く、桑
名の工芸品として知られている。桑名には九華公園と呼ば
れるかつて、本多忠勝が築城したといわれる広大な城址公
園があり、それに隣接して、やはり三重県の財閥が所有し
ていた六華園という、やはり美しい公園がある。林業と株
で財を成したといわれる家を市が買い上げて一般に開放し
たもので、その受付と喫茶室の一角に折り鶴の名品が何点
か展示されている。一枚の紙で千羽の鶴を折ったというそ
れは、超絶技巧と言っても言い過ぎではない。この句、下
の句の「折り手順」が面白い。さてさて、一度も切らずに
よくもよくも千羽鶴を折り上げたものだと、その謎解きに
しばしば時間をついやしたくなる。
濁酒野趣も馳走のまたぎ村         市川 栄司
「濁酒」とは「発酵した醪(もろみ)を濾さずにおくも
ので、白く濁っている酒」をいう。私は下戸だからその旨
さはいま一つわからないが、好きな人にとってはたまらな
く旨いものらしい。そして、その旨さは「野趣」にあるの
だと思う。「野趣も馳走」はそこを鋭く指摘したもの。「ま
たぎ」とは狩人の集団のことをいうが、現在はすっかり衰
退して、秋田その他で少数残っているという。また、一説
には、木地師がまたぎを兼ねていて、良質な杙が採れなく
なると次の土地を求めて移動したともいわれている。
静かなる群衆八月十五日          大澤 萌衣
「八月十五日」はいうまでもなく「終戦の日」。第二次世
界大戦の終結を天皇が宣言した日である。いま半藤一利の
著『日本のいちばん長い日』を読み返している。「静かな
る群衆」という言葉の中に作者の複雑な思いが凝縮されて
いる。いまも、世界の何処かで戦争が行なわれている。そ
のことについて、多くの人々が口をつぐんでいるように見
える。「群衆」という言葉には強い皮肉が込められている。
走り茶や濁手薄き唇あたり         江川 貞代
新茶の出始めのものを走り茶という。走り茶の魅力はそ
れを淹れたとき何とも甘く芳醇な香りが嗅覚をくすぐるこ
とであり、茶碗にそそがれたお茶の緑色が美しいことだ。
ところで、瀬戸と有田(伊万里)の焼き物には決定的な
ちがいがある。瀬戸が陶土を素材としているのに対して、
有田では磁石(じせき)を素材にしている。渡来人によって有田で
磁石の山が発見され、そこから採掘された磁石を粉砕して、
それを素材にしたことで、陶土に比べて薄く、また、美し
い白い焼物ができるようになった。この句は先年、若竹日
曜句会(田口風子代表)の企画で行われた佐賀吟行会の途
次、柿衛門窯で作者が入手した茶碗で走り茶を飲んだ折り
にできた句のようだ。濁手は磁器の中でも薄く焼成された
もので透明感、光沢において他を抜いている。
緑蔭や込み合つているきしめん屋      生田 令子
「きしめん」は名古屋の名物。うどんの一種だが、他のう
どんに比べて、一本一本に幅がある。名古屋市内ならそこ
ここにきしめんの店を見つけることができるが、きしめん
を全国区にしたのはJR名古屋駅のプラットホームにある
きしめん屋だろう。そして、もう一つは名古屋城内の加藤清
正石曳き像のそばにある店。きしめんは意外に夏がうまい。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(八月号より)


万緑や抜けし乳歯を見せたがる        荻野 杏子
わが子の生えたばかりの歯を詠んだ、草田男の名句「万緑
の中や吾子の歯生え初むる」から、昭和平成を経て、令和の
時代に抜けた乳歯となり、その子自身のふるまいを詠んだ、
微笑ましい一句となりました。「名句が季語を作る」を糧に。
まっすぐに打つワクチンや汗の引く      辻村 勅代
繰り返しテレビで見た、注射の針がまっすぐ突き刺される
場面。斜めに入る皮下注射と違って、突き立てるように入る
筋肉注射の映像は、痛さは別として、何度見ても慣れません。
掲句、暑さによる発汗が、ここにきてすっとおさまったので
しょう。外の暑さから屋内へ入った体の素直な反応とも、注
射の緊張感とも。昨今、共通話題のワクチン接種の一作。
採りたてのトマトの蔕の反りにそる      岡田つばな
スーパーでトマトを選るときの目安に、蔕の干からびていな
い、おしりに白い星型の線入りがよいと聞きます。掲句の新鮮
さは、文字通り採りたて。しかも蔕の形状から、枝で完熟した
ものと分かります。お日様の力をいっぱい貰って赤さ満点、お
いしさがはち切れそうな「反りにそる」です。
部屋干しの仄かなライム梅雨兆す       渡邊 悦子
黄砂や花粉を避ける目的もあってここ数年、部屋干し専用
の洗剤が数多く出回るようになりました。洗剤か柔軟剤か、
嗅覚がとらえた仄かな匂いが核となって、肌感覚へ。六月初
旬の湿潤な外気と、部屋の中の洗濯物の帯びる湿り気。そし
てライムと、梅雨の語源の梅の、果実つながり。香気のほの
かさと、兆すのささやかな気配。それぞれが巧みに微妙に細
い糸で繋がって、日本独特の季節感が伝わってくるようです。
片蔭をはみ出て不満聞くばかり        深谷 久子
何とも面白い。この俳味。この居心地の悪さ。こんな光景、
目に浮かびます。こんな心情わかります。なんだかなぁと思
いつつ、きつい陽ざしに汗をにじませているのです。しのぎ
やすい日蔭という規定の枠から体の一部は、はみ出たまま。
そして耳に入るのは、相手の不満。秀逸な中七です。
目の大きマドンナらしき目高かな       水野 幸子
マドンナからどんな女性をイメージするかで、句のもつ内
容も変わってきそうです。聖母マリアとするなら、一匹の目
高の姿は崇高でさえあります。「目の大き」から誘引される
のは米国のエンターテイナーの華マドンナ。魅惑的な泳ぎを
披露して。男性の憧れとするなら、どんな目高?それは個々
人の好みのままに。たくさんの中の一つ、小さな目高の存在
感。
寂静は霊山のごと夏の湖           関口 一秀
寂静(じゃくじょう)は調べてみると、俗世間を離れひっ
そりと静かという意味。仏教では煩悩を離れた平静心、涅槃
の境地をさすようです。季節は夏。木々が生い茂り、生命力
あふれる緑に囲まれた湖。辺りの風景がよりいっそう、湖の
静けさを引き立たせています。湖の在りようを山に喩える大
胆さもまた魅力。明鏡止水、厳かな世界が啓かれています。
時の日や朝から孫くる曽孫くる        朝岡和佳江
ご機嫌な日です。朝からなんだか景気がいい。新しい世代
の近親者が次々とやってきます。いつかその曽孫にも、孫が
でき曽孫ができ、代を継ぐのです。時の流れの一点ではある
ものの、脈々と続く人の営みをおおらかに詠んでいます。
菖蒲湯やゆたにたゆたに身を沈む       江川 貞代
「ゆたにたゆたに」が絶妙です。湯につかりゆらゆらとただ
よう。体だけでなく確と定まらない気持ちもまた含まれてい
るのでしょう。そして下五に着地するのです。菖蒲のあの独
特の匂いに邪気も払われ、心身共に落ち着いたのでしょう。
斜め上ときどき見上ぐソーダ水        田口 茉於
人が向ける視線の方向は、自ずと微妙な心理が隠されてい
るそうです。斜め上は何かを空想したり思い出したりしてい
るとか。ソーダ水を前に、想像は広がり且つ消え、会話を楽
しんでいるのでしょう。お茶目で気まま、会話も弾む一場面。
紫陽花や只今洗車の泡の中          平野  文
洗車機の中に入ったときの、あの独特の密閉空間。自分の
身は勿論ぬれる筈はないのですが、外から水を放射される様
子を内側から体験させられるのです。鞠のような花と泡立ち。
集まって咲く内側の茎の案外な細さと、車内の若干の不安感。
雲切れて光一条青時雨            橋本 周策
青時雨は「夏の雨」または「青葉」の傍題として掲載され、
歳時記によって若干違いがあるようです。ここでは葉にたまっ
た雫が青葉からはらはらと落ちる様子。雲間から差し込んだ
光の筋と共に雫もきらめきながら落下する美しい光景です。
蛍狩りわが子を闇にとられさう        水野由美子
「あくがれ出づるたまかとぞ見る」(和泉式部)と共通して
いるのは、魂の象徴であるかのような光の明滅。蛍の飛ぶ幻
想的な夜、光を放ちつつ飛ぶ蛍の背景には、わが子の生気を
奪う闇の恐ろしさも潜んでいると感じられたのでしょう。

俳句常夜灯   堀田朋子


もうたれのものでもなくて蛇の衣       常盤 倫子
(『俳壇』八月号「たれのものでも」より)
「蛇の衣」には不思議な存在感がある。蛇がここに確かに
存在したことの証であり、且つ、もうここには居ないという
不在の証でもある。梅雨の明ける頃、蛇は脱皮する。その最
中は不自由で、外敵への危険度も増すはずだから、そう容易
なことではないだろう。それでも蛇は成長するために脱皮す
る。そして、一皮剥けた艶やかな体皮を得て、また雄々しく
前進して行く。脱いだ皮などすっかり忘れて。
作者は、脱ぎ捨てられた「蛇の衣」の行く末に想いを馳せ
ているのだろう。「もうたれのものでもなくて」と言う口語
の仮名表記が、しみじみと沁みる。後は日に晒され、雨に濡
れ、風に吹かれて、土へと帰って行く。自然の循環の神秘へ
と想いを深めている作者のつぶやきのような句だと思う。共
感する。
原石のやうな夜の来る冷し酒         江崎紀和子
(『俳壇』八月号「夢のこゑ」より)
繊細なガラスの器にきりりと冷えた「冷し酒」。一人か二
人の静かな夜の入り口。これからの夜の時間が良きものにな
る予感がしている作者。それを「原石のやうな夜」と修辞さ
れた感覚に惹かれる。〝原石のやう〟とは、自然のままで加
工されていない素朴なということだろう。心を飾ることなく、
あるがままの自分に帰ることのできる、そんな夜なのだろう。
様々な予定事を心を削るように成してゆく生活の中では、そ
んな時間はなかなか得難いものだ。
酷暑の日を乗り切った夜、一杯の「冷し酒」が喉を滑り気
持ちを開放してくれる。何かを求めて知らず知らずのうちに
尖っていた自分に、原石であったころの素直な姿を思い出さ
せてくれる。再び、より良く磨くことのできる可能性をも感
じさせてくれる。現代人に好まれる「冷し酒」の本意はここ
にあるのだろう。
子を連れてサマードレスは帆となりぬ     小林 鮎美
(『俳壇』八月号「土に触れ」より)
清々しい風の渡る海辺をゆっくりと歩む、若い母親と幼子
の姿が浮かぶ。その様子を遠景として見ている詠み手である
私自身も意識できる不思議な句だと思う。
幼子は、折々に興味を持ったものに駆け寄ったり、跪いた
りしている。それを見守っている若き母である作者にとって
は、我が子こそ幸せの具現なのだろう。裾の長いゆったりと
した「サマードレス」が海の風をいっぱいに含んで、海原へ
と連れ出されそうだ。それを作者は、「帆となりぬ」と臨場
感たっぷりに表現している。若々しい素朴な感性だと思う。
帆は、風をはらんで船を進ませるものだ。この子を守りな
がら、幾多の波を越えて、大海原を生き抜いていこうとする
母の決意のようなものが、句全体に満ちている。同時に、そ
の光景を遠くから見ている私にも、幸せを守る勇気が満ちる
ように思えてくる、そんな句だ。
遠花火立たんと座り直しけり         池田 澄子
(『俳壇』八月号「多謝」より)
「遠花火」が上がり始めた。もっとよく見たくて、立ち上
がる作者。若者ならば、どんな姿勢からでもささっと立ち上
がることだろう。それも軽やかでいい。けれど齢を得れば、
そうもいかない。崩していた姿勢をまず座り直さなければな
らない。そして、体幹を立て直した後、重心を上げながら
ゆっくりと立ち上がるのだ。いつの間にか体が覚えた所作を
ふっと再確認した句と言えよう。
このように自身の体感覚を意識することは、とても重要だ
と思う。それが、一連の美しい身のこなしへと繋がっていく
のだと思う。作者はそんな方なのだろう。
円陣を生徒と組めり汗に触れ         荒川 英之
(『俳壇』八月号「円陣」より)
作者は、教師を生業とされているのだろう。体育会系の部
活動か、校内のスポーツ大会か。士気を高めるために、生徒
たちと共に円陣を組んだ作者。身体と身体を繋ぎ合わせる
と、熱気を帯びた生徒たちの「汗に触れ」た。そのダイレク
トな実感を詠み切った句だ。
汗とは、自分のものでも他の人のものでも、ふつう厭わし
いものではなかろうか。けれど作者は、この時の汗を輝かし
いものとして感じ取っている。生徒たちとの連帯感を喜びと
して実感している様子に清々しさを覚える。教師冥利につき
る瞬間だと思うそのことこそが、作者が素晴らしい教師であ
ることの証明であると思える。
山車の子に湯屋の昼湯の沸いてをり      師岡 洋子
(『俳句四季』八月号「大阪天満宮」より)
大阪市在住の作者による「天神祭」を迎えた町を詠んだ五
句中の一句。まだ誰も入っていない真っ新な「湯屋の昼湯」
が、頃合いに沸いている様子をただ静かに詠むことで、奥行
きが感じられる句になっている。この町に根ざして営まれる
「湯屋」の温かな商いぶり。次世代を担う子供たちを町全体
で育む成熟した地域社会。それらが、祭りという軸を中心に
して受け継がれている。
もうすぐ、山車での役目を終えた子供たちが、その昂揚感
のままにどやどやとやって来るだろう。仲間で成し遂げたそ
の達成感は、子供たちの中にずっと住み続けることだろう。