No.1078 令和4年2月号

井垣清明の書17

昭和63年(一九八八年) 十一月
跡見学園女子大学紫ゆかりさい祭賛助出品
(個人蔵)
釈 文
望(ボウ・のぞむ)

流 水 抄   加古宗也


紙を漉く音にも律呂小原の灯
紙漉き場紙漉く音の外(ほか)聞かず
亜浪忌の昃ればまた紅葉散る
こきりこ節はぬくとき唄よ炉を囲む
炉框やこきりこは竹踊らせて
こきりの哀調に酔ひ榾を足す
かかの座に隣るばばの座榾を焚く
前橋にて
小春日や竜王戦の熱気ふと
神旅に百畳の間の鳥瞰図
枯芝や寝転んで見る榛名富士
冬雁や余呉に短かき鉄の橋
競り札を競り台に乗せ寒蜆
十二月八日レノンのソロに酔ふ

真珠抄二月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


歌女鳴くや仁王のきびす濡れてをり     水野 幸子
枯蟷螂いつまで生きていつ死にき      竹原多枝子
柿みかん自作ばかりや句碑まつり      金子あきゑ
冬暖や若き剣士と張り合へり        酒井 杉也
煮凝や鋳物師に染む火の匂ひ        鈴木こう子
伐採の丸太並べて山眠る          松元 貞子
冬紅葉現場主任の膝に笛          鈴木 玲子
自転車マニア集ふ廃線跡の秋        鶴田 和美
聖夜いとはず産み月の子の重さ       中井 光瞬
折れるべき処で折れて枯蓮         堀田 朋子
過ぎ去りて気付く幸あり年惜しむ      稲垣 まき
三島忌や大音量の街宣車          新部とし子
木枯や忠治の墓に鉄の柵          関口 一秀
擦れ違ふ人みな年や草紅葉         堀口 忠男
冬が来てゐる木曽川の波がしら       池田真佐子
まう母へ送る荷のなき十二月        荻野 杏子
前撮りの二十歳輝く冬紅葉         渡邉 悦子
恐山雪もこの世のものならず        市川 栄司
甥つ子は有給使ひ冬囲           磯村 通子
小走りに動きし磯の石たたき        岩瀬みその
昨夜の雨濁流となり鴨寄せず        田口 風子
地炉掘りて終の土蔵は窓ひとつ       加島 照子
冬日透く手吹き硝子の喫茶室        髙𣘺 まり子
味噌こしにほぐれゆく味噌今朝の冬     堀場 幸子
居眠りす夫を冬日が包みけり        岩瀬うえの
出刃包丁研ぐ極月の夫の黙         髙瀬あけみ
夜の家事終へ妻の手の冷たさよ       堀田 和敬
十二月八日老躯に灸すえる         髙相 光穂
冬の灯やみすゞ遺稿の小さき文字      天野れい子
胴切りの松打台に牡蠣打ち女        小柳 絲子

選後余滴  加古宗也


胴切りの松打台に牡蠣打ち女        小柳 絲子
「胴切りの松」で切り、「打台」に続く。つまり、松を輪
切りにしたものを牡蠣の打ち台に使っているというのだ。
松を胴切りにした板は、牡蠣殻が刺さってもまず割れたり
することはない。極めて丈夫だ。加えて牡蠣割の台にふさ
わしい野性とでもいうべきものを感じさせる。上品ぶって
も牡蠣は上手には割れない。漁師の妻らしい土性骨がすん
なりと見て取れて、作者を喜ばせたのだ。俳句の根幹にあ
る「傾く」が見事に詠み取られた一句だ。
牡蠣打ちの男迷彩服で来る    絲子
も意表をつく。
歌女鳴くや仁王のきびす濡れてをり     水野 幸子
「歌女鳴く」というのは「螻蛄鳴く」という季語と同じだ。
秋の夜、どこからともなく聞こえてくるジーという音を「歌
女鳴く」といったもので、その昔、蛇は歌が上手だったが、
目が見えなかった。蛇に歌を習いに行った蚯蚓が、このとき、
目と歌を交換したというのだ。柳田国男によって紹介され
た説話が季語となったというが、そこに流れる神秘性が俳
人の心をひき付けるのだろう。螻蛄(おけら)が鳴くのと
混同されたという説もあるが、螻蛄も蚯蚓と同様、音を出
す器官、発声器官が無いから鳴くはずはないのだ。螻蛄を
つかまえると脚をしきりに動かすので、その時に音が出る
のではないかという無理な議論もある。そんなことを半ば
本気で議論したがるところに俳人の愛すべき姿があるのだ。
「仁王のきびす濡れてをり」と「歌女鳴く」と同様、あ
れこれと観察し、考える純情さにこの俳句の核心があるの
ではないか。
昨夜の雨濁流となり鴨寄せず        田口 風子
山間の雨は一気に沢を下り、谷にそそぎ込む。昨夜の雨
が濁流になっている様子に圧倒されている作者の姿が浮か
ぶ。「鴨寄せず」は鴨を寄せつけていないだけでなく、作
者をも、その濁流は拒否している。自然界の営為(えいい)
が具体的に詠まれていて力がある。
冬の灯やみすゞ遺稿の小さき文字      天野れい子
この句のすぐ前に「この町にみすゞと香月小春空」とい
う句が出てくる。ここにある「香月」とは、シベリアシリー
ズで有名な画家・香月泰男を指しているのだろう。もう一
人の金子みすゞについてはテレビドラマを見て感動したほ
かは雑誌等でぱらぱらと触れた程度だ。香月画集の年譜に
よれば現在の山口県大津郡三隅町に生まれている。平成の
大合併によって町の名は変わっているかもしれないが少な
くとも山口県人であったことは間違いない。
金子みすゞは夫の梅毒をうつされ早逝するが、夫の放蕩
は自分のせいだと自責の念にかられ、夫を責めることはな
かったようだ。「遺稿の小さき文字」にその間の消息が見
て取れるようでせつない。
存外にやはらかさうな鴨の嘴        田口 茉於
鴨の嘴が柔らかいか硬いか触れたことがないから分から
ないが、家鴨の嘴は硬かった。しかし、この句は「やはら
かさうな」といっている。つまり、そう見えるというのだ。
ここに作者の詩がある。「存外に」との詠み出しも茶目っ
気がありうれしくなるではないか。
恐山雪もこの世のものならず        市川 栄司
「恐山」は青森県の下北半島にある火山だ。先年訪れた
ことがある。いかにも霊場といった風情で、足を一歩踏み
入れたとたんに異界へ足を踏み入れたかの心地がしたもの
だ。五十年余りも昔の話しにになるが、先師の富田うしほ
が訪れた直後に聞いたときのイメージが、私が訪れたとき
にも強くあったのかもしれない。亡くなった孫と巫子(い
たこ)を介して話したことなど、いまは巫子が熔岩の裾で
話すのではなく、新しく建てられた大きな建物の中で行な
われているとも聞いた。そして、その後、巫子は一人もい
なくなったと聞いたが真偽はわからない。この句「雪もこ
の世のものならず」が鬼気迫る把握だ。恐山を訪れたとき
のイメージが彷彿として甦った。
夜の家事終へ妻の手の冷たさよ       堀田 和敬
「夜の家事終へ」は「夜の家事を終へし」の方が素直か
もしれない。しかし、妻の仕事が一段落したというだけで
なく、夫の仕事も一段落、と理解する方が「冷たさよ」に
素直に直結するように思う。それはさておき、妻を愛する
気持が真っ直ぐに詠まれていて心地がよい。
甥つ子は有給使ひ冬囲           磯村 通子
作者は豪雪地帯、新潟の出身。たまたま帰省したときの
光景だろう。「有給使ひ」の措辞に甘えは許されない北国
の人の冬の暮しぶりが厳しく表現されていて胸を打つ。自
然との闘いが如何なるものかが、経済の面からも詠まれて
いるのが新鮮だ。そして、北国の人の強さも。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(十二月号より)


秋風に干すスカーフは甕覗き         田口 風子
「甕覗き」とは藍染めの甕をほんの少し覗いた程度に、浅
く染めた青色のこと。言い得て妙なるネーミング。覗色の淡
さは美しく、興のわく和名に、秋の空の明るさも感じます。
スカーフをなびかせる秋風も涼やかです。
せんにん草しろしろ三の池の端        辻村 勅代
「しろしろ」は目立って白い「しろじろ」の意味でしょうか。
一の池、二の池を来て作者は、三の池付近に咲く花の白さに
目がいったのでしょう。花の名は、仙人の髭に見立てた実の
白い毛が由来とか。これから季語に確定されていくであろう、
仙人草の花と実。一度見てみたいと思いました。
藤袴ほつほつ今日も待ちぼうけ        服部くらら
「ほつほつ」から傘状に集まった小さな花が、少しずつ開
いている様子が目に浮かびます。開花とともに、旅する蝶ア
サギマダラを待っているのでしょう。浅黄斑は藤袴の毒性を
体に入れることで、鳥からの捕食を防いでいるそうです。期
待しながら気長に待つ心ばえに余韻が広がります。
秋晴を来て鯱の腹真下から          池田あや美
気持ちの良い秋晴を見上げた視線そのままに、大胆な光景
が広がる、気分のよい展開です。秋晴れの青さは水槽の水の
色と重なり、大きな鯱の普段見られない視点からの光景につ
ながっています。作者と同じ所に立って、見上げるように誘
導される下五。水の透明感、澄み渡った秋の空が、ありあり
と見えるようです。
身に入むや波の底より鈴の音         川端 庸子
鈴の音は、古来より邪気を払い浄化する力があるとされて
きました。その音が、海という広がる面ではなく、波という
寄せては返す動きのある底より聞こえてくるのです。波音に
交じって、遠く近く、低く高く。切なく哀愁を帯びた、妙な
る響き。それは、作者が聞きたい音でもあるような気がしま
す。季語が一句全体を包んで、秋のしみじみとした情感、思
いを伝えているようです。
新米の御礼言ひ出すまで長き         田口 茉於
こんな状況、あるあるです。まずはお礼をと思うのですが、
話の流れがなかなか思うように運びません。頃合いを待つ間
の何とも言えない心境が、こんなにもあっさりと分かりやす
く、しかも俳味をもって、十七音に仕上げられています。そ
れでいて、新米のありがたさまで伝わるのです。
束ね持つコスモスやけに嵩張って       奥平ひかる
一見、か弱そうに見えるコスモスの案外の嵩。たおやかな
様子でありながら、細い茎はあちらへ曲がったりこちらへ伸
びたり。それはそれぞれ風と自由に遊んだ証でしょう。切り
花の束ねた実感を詠む、コスモスの新鮮な一句。
二十三夜長編本の中扉            中野こと葉
「二十三夜」とは、陰暦八月二十三日の月のことをいうそ
うです。秋の夜の長さと、単行本の厚さ。夜更けに上がる月
をみるひとときと、長編を仕切る「中扉」の一区切り。読書
に浸る深夜、中扉に一息ついて眺める細く美しい月です。
いざよひや殺し文句は一度きり        大澤 萌衣
十六夜は、ぐずぐずと進みかねている意味の「いさよふ」
から。この状況を決断させるような、或いは相手を悩殺する
ような巧妙な一言です。夏目雅子の「なめたらあかんぜよ」
の豪胆さに、甘さを足したような言葉でしょうか。季語と絶
妙に響き合っています。
木の実落つ訪ふこともなき夫の里       松元 貞子
たしかご夫君は薩摩のご出身。熟した木の実が自然に落ち
るように、時の流れと共に夫のふる里も遠くなり、そうして
次第に疎遠になっていくのでしょう。寂しいと感じつつ静か
に受け止め、受け容れているような作者の心もちを感じます。
島の子は島の遊びを秋桜           加藤 久子
島ならではの、遊びです。地域に根差した遊びは、独自の
ルールがあり、今もその決まりごとが守られているのでしょ
う。子どもの小さな社会ですが、培われてきたものがあるの
でしょう。どこか郷愁を誘うように、子等の傍らで秋桜が揺
れています。
気勢あげ長縄飛の列つづく          髙瀬あけみ
のっけからあふれる元気の良さ。長縄のリズムに合わせて
次々と飛び込み、飛び終えた勢いそのままに、また列の後ろ
へつくのです。足が縄にひっかかるまでの無限ループ。個々
の軽快な動きと集団の醍醐味。勢いの良さに、気力も充実し
てくるようです。
紅葉且つ散る首塚のかすれ文字        加島 照子
埋葬されているのは武将の首でしょうか。墓の文字は、今
はもう判読しにくくなっています。首塚の生々しさも今と
なっては昔のこと。紅葉と落葉の同時並行の季語が、生と死
の象徴のようで、首塚を無常の闇へ誘っているかのようで
す。

俳句常夜灯   堀田朋子


もうひとり君を産みたし雪を嗅ぐ       小林 鮎美
(『俳句四季』十二月号「雪を嗅ぐ」より)
可愛い盛りの小さな吾が子。この世の物事をひとつひとつ
理解し始めている。でも、まだまだ世界の中心には母親がい
るのだろう。雪の日の幸せな母子の情景が浮かぶ。
上五・中七には、作者の身体の奥深くから湧き出てきた思
いを、そのまま言葉にした率直さがある。男女平等は願うま
でもないことだが、掲句のような幸せな感慨は女性ならでは
の特権だと思うと、なんだか得したような気持ちになる。
特に出色なのは、「雪を嗅ぐ」という措辞だと思う。雪の
積もった朝か、今まさに降っている最中か、母子は新鮮な雪
の匂いに包まれているのだ。深呼吸をすることで、その匂い
は神聖で懐かしいものとなり、作者の現在のあり様をまるご
と肯定させてくれるものとなったのではなかろうか。幸せに
満ちた句だ。
蜜柑一房抓み胎の子これくらい        栄  猿丸
(『俳句四季』十二月号「ひとりなら」より)
胎児を「蜜柑一房」くらいだと例える。なるほど形が似て
なくもない。妊娠三か月頃なら、大きさも重さもそれくらい
だろうか。男性の句だと思う。胎児との間になんとなく距離
感がある。けれど、それを埋めてリアルに受け止めようとす
る意志が感じられる。男性ならではの〝はにかみ〟のような
ものも覗ける。
蜜柑を食べようと一房を抓んだ時、ピンとよぎった発見を
作者は面白がっている。それがそのまま季語であることも面
白いと思う。温かくも諧謔の句だと感じた。
月光の巻き上げてゐる鉋屑          宮田  勝
(『角川俳句』十二月号「師は卒寿」より)
「月光」と「鉋屑」はどちらも美しく清らかなものだと思う。
その二つを静かに配した掲句は、隅から隅まで清々しい。
夜の作業場のなんでもない鉋屑が、不思議と作者の目と心
を奪った。当たり前の鉋屑が、薄く薄く巻き上げられて、清
らかな樹木の香りを放ち、月の光を透かしている。月光は、
照らし出すことでこの世の存在物を確かにする。直接的な太
陽の光とは違った光で、我々に多くを悟らせてくれるもので
はなかろうか。変哲もない「鉋屑」が、かけがえのないもの
に思えてくる。作者はこの夜、月光が持つ力に気付いたのだ
ろう。それが、まるで月光が「巻き上げてゐる」かのような
表現に結実したのだと思う。
見えるものと同時に、その奥に隠れて見えないものをも提
示しているようだ。なんだか神聖ささえ感じ取れる句だ。
生も死も遠ざけ日向ぼこりかな        大野 崇文
(『角川俳句』十二月号「名残空」より)
「生も死も遠ざけ」と詠むことからは、作者が、日頃から
生と死についてしばしば思い至っていることが伺える。けれ
ど、冬の暖かな日向にじっと動かずにいる今は、生死のこと
など遠くのことのように感じられるという。誰もが経験する
感懐ではなかろうか。これぞ太陽の持つ威力かも知れない。
「生も死も」と大上段に思える時がある。何も差し迫った
時とは限らないようだ。こんな風に、ゆったりと「日向ぼこ
り」している時にふっとよぎるのが、人の頭脳の不思議なの
だろう。「ぼこり」とは、〝ほっこり〟に由来するらしい。季
語の本意に満たされてい句だ。
棒状の水滴らせ牡蠣を上ぐ          石井いさお
(『俳句四季』十二月号「牡蠣」より)
先日所属する吟行会で、浜名湖の牡蠣養殖業者の方を訪ね
る機会を得た。見学させていただいたのは、湖からあげて運
んできた牡蠣に付着した泥や海藻を取り除く作業と、牡蠣殻
を器用に開いて身を取り出す場面だった。残念なことに、船
を出して湖上で引き上げる様子はみることができなかった。
でも、若き後継者の方のゴム製のつなぎに、乾ききらぬごみ
屑が付いているのを見て、早朝から船を出して運んで来られ
たのだなと想像することができた。
さて掲句は、まさに牡蠣を引き上げる様子を詠んだものだ。
産地によって筏のようであったり、杭を打ってロープを渡し
たりと様式は異なるようだが、ずっしりと太った牡蠣の着い
た縄を上げる時、「棒状の水滴らせ」は共通した臨場感のあ
る表現だと思う。水とは想像する以上に重たいものだから、
とても重労働であることが伺える。けれど、この時こそが牡
蠣養殖の醍醐味であり、収穫の喜びの時なのだ。朝の光に煌
めく棒状の海水、滴る音、牡蠣と海藻の匂い、力を入れる者
の息づかいが感じられる。牡蠣を育てる豊かな海とそこで汗
をかく労働の尊さが伝わってくる、力に満ちた句だと思う。
脱皮せしやうな少年セロリ噛む        柴田佐知子
(『角川俳句』十二月号「天辺」より)
「やうな」とか「ごとく」の使用は、注意が必要だと思う。
ついつい詠み手だけの感じ方を強要することになってしま
い、読み手の共感に繋がらないことがあるからだと思う。し
かし、掲句の「脱皮せしやうな少年」という表現は、ピタリ
と的を射ている。季語「セロリ」へと無理のない関係性を感
じ取ることができて見事だ。脱皮とは、虫や蛇などにとって
成長するために必要なこと。この少年は今、成長の一段階を
しなやかに登ったところらしい。「セロリ噛む」の新鮮な仕
種が、旺盛な生きる意欲を表現して余りある。少年の成長を
見守る作者の喜びが伝わってくる。