No.1083 令和4年7月号

井垣清明の書22

萬金

平成5年(一九九三年)六月
第28回北城書社展(上野の森美術館)

釈 文

萬金(まんきん)
⦅漢の温(お んこ)(ゆたんぽ)より⦆

流 水 抄   加古宗也


郡上いまも詩の里宗祇水温む
味噌桶は寝かせ干すもの雀の子
薄き日や白木蓮は花かかげ
なかよしと名付けし塑像花の昼
大福も串のだんごも草の餅
嘘つくと舌抜かるるぞ四月馬鹿
足助にて
マンリンてふ書肆あり草の餅届く
草餅やけさ摘みたての蓬もて
前橋にて
うぐひすや花袋文明朔太郎
花の昼懐しき名に朔太郎
記念樹の枝垂桜や豊かにて
軒樋をこぼるる藁や雀の子
白樺の幹の艶めき巣立鳥
囲碁打ちに来て瀬戸内の桜鯛
海賊の砦跡見え桜鯛
津波跡のこる長堤柳絮飛ぶ
椿寿忌の墓に椿の挿されあり
虚子の忌のコップに注ぐ伊予の酒
西尾市熊味町・真成寺
郷人の花持ち寄り来花御堂

真珠抄七月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


国盗りの丘の真中や青葉照る       鈴木 玲子
雨あがる麦の穂揺るるあたりより     田口 茉於
制服になじむ校章夏来る         工藤 弘子
国東の谷一面の麦の秋          藤原 博惠
茅花穂に出て登校の集合所        荻野 杏子
白牡丹二耳持つ壷のふっくらと      辻村 勅代
蝦夷虫食地鳴きで森をめぐりをり     堀口 忠男
藤村の書架にニーチェも麦の秋      田口 風子
涼しさや年輪著き珪化木         池田あや美
セイウチの息生臭し走り梅雨       白木 紀子
乗る船はもう待っている島新樹      竹原多枝子
何時見てもこれが花とはバナナの木    田口 綾子
一本で面取る少女青嵐          市川 栄司
風青し魚が鳥の喉とほる         大澤 萌衣
桜餅雨傘差して買うて来し        三矢らく子
八十八夜隣の簿記の電卓音        川嵜 昭典
寸切りや丈山れんげ挿されをり      渡邊たけし
走り梅雨コーヒー店の重きドア      岡田つばな
水打つて一人暮しをつつましく      水野 幸子
さびしさは慣るるほかなし半仙戯     酒井 英子
瓶底に匙のとどかぬ花の昼        丹波美代子
ラヂオ洩れくる作陶の掛すだれ      今泉かの子
黴の香やほつたらかしのガラスペン    生田 令子
卯の花垣や信綱の生家跡         鈴木 静香
行く春のフルートで聞くアヴェ・マリア  天野れい子
ケーキ屋の窓の線描緑さす        長村 道子
リラ咲くや隣の犬はシャネル着て     加島 照子
藤揺れやまぬ円空の入定塚        服部くらら
本宮と見惑ふ二社や夏木立        高濱 聡光
夏の朝代官山で本を買ふ         山科 和子

選後余滴  加古宗也


雨あがる麦の穂揺るるあたりより      田口 茉於
「麦の穂揺るるあたり」が面白い。つまり、麦の穂は雨
に濡れていないかのような描写になっている。それは麦秋
のあの明るさを感覚的につかまえて過不足がない。からっ
とした明るさと空気感を見事にとらえた。「また坂を行く
長崎に枇杷育ち」も面白い。長崎という町の風土を鷲掴み
にしていて明るい。それは作者の資質というものだろう。
制服になじむ校章夏来る          工藤 弘子
「更衣」によって、白の上にとめられた校章がすっかり
読みとれたということだろう。意外な発見だが、この意外
性こそ「夏来たる」という季語の本意にかなった発見といっ
ていい。「リラ冷や外人墓地の水たまり」もまた「水たまり」
が「リラ冷」の本意にかなっている。この外人墓地はどこ
の墓地だろうか。横浜のそれか、あるいはどこか、「日本
の墓地」と違う。そこがこの句を面白くしている。
ケーキ屋の窓の線描緑さす         長村 道子
ケーキ屋の大きなガラス窓には、よく線描画が描かれて
いる。その線描画によってケーキ屋と直感させられるのは、
どうしてだろう。そして、ケーキがおいしそうに見える。「緑
さす」の「緑」はここでは「新緑」であることはいうまで
もなく、この「緑さす」によって、できあがったばかりのケー
キが見えてくる。
穏やかな海羅の一日にて          藤原 博恵
「穏やかな海」によって、ただ海が荒れていないという
だけでなく、水平線まで見事に望むことができる海がそこ
にあることがおのずと知れて、心の奥まで穏やかな作者の
たたずまいが見えてくる。羅を着たことで一層解放感が作
者を平穏にみちびいている。一日が短いようで長く、長い
ようで短い。
ラジオ洩れくる作陶の掛すだれ       今泉かの子
焼き物の町、常滑を吟行したときの一句のようだ。常滑
の町もかつてのような活気をすっかり無くしている。一番
の理由はコロナの蔓延だ。飲食店・旅行業者などがマスコ
ミに多く取り上げられてきた。経済沈下のV字回復はとう
てい望めないほど深刻な情況がつづいている。そんな情況
の中で、掲出の句のような風景は、どこかほっとさせられ
る。日本人の真骨頂というべき、しぶとく生きる姿勢が掛
すだれの向うから見えてくるのだ。ラジオを流しながら手
仕事に打ち込む職人の姿がうれしい。そこに日本人が日本
人を信頼する原点を見る。
瓶底に匙のとどかぬ花の昼         丹波美代子
この瓶には何が入っていたのだろうか。コーヒーのため
の砂糖だろうか。あるいはパンに塗るためのバターだろう
か。あるいは蜂蜜ということも考えられる。ひょっとした
ら水飴ということも。花見をしながら、口淋しさをまぎら
わすために何をすくい取ろうとしているのだろう。このイ
ライラ感が「花の昼」という場の設定によってにわかに楽
しいものになってくる。
茅花穂に出て登校の集合所         荻野 杏子
「茅花」は「ちがや」の花穂のことで、春も深まってく
ると白い花穂が風になびいて美しい。「茅花流し」という
季語もあるが、日本人の多くが原風景としている人も多い。
土手や道端に細く長くつらなっている景色は心地よい。田
舎道の何本かが集まったところが、通学団の集合場所に
なっている。茅花のなびく光景が美しいから、子供たちの
集合場所に選ばれるのに違いない。私たちが子供の頃には
茅花の穂が出る前にその苞をほぐして、中の緑を出して噛
んで楽しんだものだ。少し青くさいものだったがそれがお
いしかった。
水打つて一人暮しをつつましく       水野 幸子
「水打つて」という季語がいぶし銀のような魅力を放つ
一句だ。ことさらに涼風を呼び込もうというのではなく、
最も原始的な「打ち水」で足りるとする心根がまた心地よ
い。中七以下の「一人暮しをつつましく」の措辞はどきり
とするような表現だ。村上鬼城の句振りの核心ともいうべ
きところをゆるぎなく捕えている。
黴の香やほつたらかしのガラスペン     生田 令子
ガラスペンに黴が生えているのだ。ペン先には、もろも
ろの汚れが付着していたのだろうか。物臭ゆえの罰である
かのような表現が面白い。「黴の香」が過不足なく効いて
いる。
卯の花垣や信綱の生家跡          鈴木 静香
「信綱」は「佐々木信綱」。文部省唱歌「卯の花の匂う垣
根に・・・」の作詞者。歌人であり、三重県鈴鹿の人。富田
うしほとも交流がった。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(五月号より)


走る火をなめ登りくる山火かな         酒井英子
山焼きの火の勢いが句の調べとなって、迫るように追い立
てるように下五に到達します。動詞、複合動詞から生まれる
スピード感でしょうか。火の舌が草をなめていくような恐ろ
しさ。山焼きは、人が火を制御する危険さの上に成り立って
います。そうしてまた、山の恵みももたらされるのでしょう。
ひばり語の半熟散らし初雲雀         服部くらら
「半熟」には未熟の意味(広辞苑)もあり、初雲雀のまだ
充分でない鳴き声が、辺りに振りまかれている様子を詠まれ
たのでしょう。それにしても「ひばり語」がなんともかわい
らしい。鳥語としても楽しく、さらに「ひばり」から昭和の
歌姫「美空ひばり」の存在まで、つい思い出されました。
夫の趣味引き継ぐ次男春の風         磯村 道子
春風ののどかさと同時に、家庭の温かさを感じます。引き
継いだのは仕事ではなく、趣味。趣味は何かわかりませんが、
想像はご随意に、の鷹揚さも季語から感じます。まさに駘蕩。
一枝の頬打つ撓り桑を解く          平井  香
中七。打たれた頬の痛みは、厳しい冬を耐えてきた桑の命
の証なのでしょう。身を守るための縛りが解き放たれて、春
の陽光へと…。枝のしなりは伸びる力となって、春の陽ざし
の明るさに、今度は生き生きと枝を広げていくのでしょう。
春はあけぼの母の声めく鳩時計        村上いちみ
四季の巡りと一日の流れがタイアップされた『枕草子』。春
という季節に相応しいのは一日の内で曙の頃が一番。そこに
聞こえる母の声のような響き。抜群の取り合わせです。「ハ」
の頭韻の調べの明るさ、「ア」の母音の柔らかさに包まれて。
シェルターに紋白蝶は翅を閉づ        大澤 萌衣
避難する閉ざされた空間に、紋白蝶が翅を休めています。
いつか青空へ出る時をひっそりと待つ心象風景とも。シェル
ターのシと共に、いたいけな紋白蝶の白さが印象に残ります。
氷上や羽生結弦は琵琶に乗る         阿知波裕子
端正な顔立ち、スケーターになるべく生まれたような長い
手足。それ以上にストイックなまでに限界を極めようとする
強い意志。銀盤のスターにふさわしい思い切った詠い出しで
す。琵琶の「弦」の調べに乗って滑る姿はこの上なく美しい。
木と布で空飛ぶ夢よ鳥雲に          鶴田 和美
空を飛ぶことは翼をもたない人類の原初的な夢。掲句は、
ダ・ヴィンチの設計図を基に作られた、ヘリコプターの原型
を見ての吟です。北へと向かう鳥。去っていった後には、飛
ぶことを夢見た、そして今も追い続ける空が広がっています。
春光の届くベンチを分かち合ふ        奥田ひかる
気分のいいベンチです。誰でもが自由に座れる、開かれた
公共性。椅子のように個人的なものではない故の「分かち合」
える場です。降り注ぐ春の陽光も、そしてその光景もあたた
かい。その端に座らせてほしくなる、ベンチです。
三寒四温重油タンクの並ぶ畑         喜多 豊子
ハウス栽培の一端をとらえた的確な描写が光ります。その
切り取り方から、農家の方の気苦労まで伝わります。外気温
の不安定な時期、ハウス内を一定の温度に保つべく必要な燃
料、重油。重さを感じる措辞にこのところの原油高騰もあ
り、重量と共に気持ちも加味されて。気の抜けない三寒四温
です。
大水車ゆるりと掬ふ春の風          和田 郁江
のどかな春の空気感。水車が掬っているのは、春の水なら
ぬ「春の風」。「ゆるりと」から、水車の大きさや春の風の柔
らかさが伝わります。
花の色空の色とも暮れにけり         岩田かつら
今日のこの日が無事に終わった穏やかさを感じます。先ほ
どまで暮色蒼然としていた辺りは、夜の帳に包まれて。翳り
を帯びた花の色は、時の経過に夜色へと変わっていきます。
果てなきものは円周率と春の空        岡本たんぽぽ
伸び伸びとして、どこまでも駆けてゆけそうです。人の叡
智の「円周率」と広大無辺の空と。季節はものみな芽吹く春。
何か新しいことにチャレンジしたくなる、そんな気持ちにな
りました。
合格のメールに並ぶ感嘆符          黒野美由紀
ひと昔前は「サクラサク」の祝電でした。感嘆符が一つで
ないところに、「受験」という一大イベントの結果を明かす
緊張感、高揚感を感じます。そして「合格」という嬉しい驚
き、達成感。希望の春に立ちあえる喜びも、また。
でっかいのぎょろぎょろ捜す春キャベツ    犬塚 玲子
何だか楽しいぞ。この生きの良さ。柔らかく水分多めの春
キャベツ。生食の甘さもシャキシャキ感も抜群です。春キャ
ベツの巻く葉のゆるさが、大胆な表現も包み込んでくれそう。

十七音の森を歩く   鈴木帰心


七月や詰めれば少し空く心          根橋 久子
(『俳壇年鑑二〇二二年版』より)
七月は梅雨が終わり、本格的な夏が始まる月である。衣替
えはすでに済ませ、服装は軽やかなものを着ている。心もあ
れこれ詰め込み過ぎず、風通しよくしておかないと、これか
らの暑さに耐えられない。そんな心の状態を「詰めれば少し
空く心」と表現した。まさに言い得て妙である。
夏帽子十分前に集まりぬ           田村祐巳子
(『俳壇年鑑二〇二二年版』より)
掲句を読み、次の句を思い出した。
遅参なき忘年会の始まれり       前田 普羅
「遅参なき」の措辞は、忘年会を楽しみにしていた参加者
のうきうきした気持ちを表している。掲句の「十分前」の措
辞は、この「遅参なき」と同様の働きをしている。ただ普羅
の句の場合、楽しみの対象が句の中に示されているが、掲句
にはそれは示されておらず、季語の「夏帽子」とのみ書かれ
ている。そのため、掲句における「夏帽子」の集団は、何を
楽しみにしてやって来たのか、は読者の想像にゆだねられて
いる(筆者は、野鳥観察のグループだろうか、と思った)。
八月や母の遺品に兄の辞書          望月 賀代
(『俳壇年鑑二〇二二年版』より)
幼い頃、友達の靴を間違えて履いてしまった時の、何とも
言えない感覚というのは、多くの人が経験しているのではな
いだろうか。英語には「他人の靴を履く」という慣用句があ
り、それは、「他人の立場になってみる」という意味である。
他人が愛用した辞書を手に取って頁をめくってみても同じ
ような感覚を得る。その辞書の手垢や染みや摺れ具合から、
その人のことが想像される。まして、自分の肉親の辞書であ
ればなおのこと。
「八月」の措辞から、作者のお兄様は、あるいは戦死され
たのでないだろうか、と思った。お母様は、お兄様が愛用さ
れた辞書を手にしながら、その悲しみを紛らわせておられた
のではないだろうか。
お二人の肉親を亡くされた作者の辛さを推し量ることはで
きないが、切なさが幾重にも感じられる句である。
コキコキと競歩一団秋高し          松田 眞之
(『俳壇年鑑二〇二二年版』より)
「コキコキ」と言えば、次の有名な句を即座に思いだす。
鳥わたるこきこきこきと缶切れば    秋元不死男
小学校の教科書でこの句を見た時のことは今なお鮮烈に覚え
ている。昭和の時代、まだ缶詰は缶切りで開けていたので、
「こきこきこき」の擬音は、実にしっくりきた。
筆者は当然この句を意識して掲句を詠んだのだろう。どち
らも秋の景を表現している点で、二つの句は響きあってい
る。確かに競歩のあの独特の歩き方を見ると、選手の手足の
関節から「コキコキ」と音がしてきそうだ。こちらの「こき
こき」もしっくりくる。
不死男の句への見事なオマージュだ。
訳ありの林檎の訳を聞いてやる        藤田美和子
(『俳壇年鑑二〇二二年版』より)
「訳あり」と書かれている食品の「訳」とは、「在庫処分品、
賞味期限の近い物、ふぞろい、つぶれ」などである。作者は、
そんな「訳あり」の表示のされた林檎を手に取り、「こんな
に美味しそうなのに、お前はなぜ訳ありなんだい」と聞いて
いる。そして続けて次のように林檎に言ったのではないだろ
うか─「私には、お前が訳ありなんて言われる筋合いはない
と思うよ」、と。
人間の社会においても、人は他人に「訳あり」のラベルを
貼りたがる。そして、往々にして、そのラベルは、その人の
本質を見誤ったものになりがちだ。「炎上」などという言葉
も日常よく聞かれる。掲句は、そんなカサカサした人の心を
癒してくれる。
不器用な夫に煤逃してもらふ         足立 枝里
(『俳壇年鑑二〇二二年版』より)
昔と比較すると、最近は、家事をする男性も増えてきた。
しかし、家事の不得手な男性が多いのも事実だ。なまじ、「今
日は手伝おう」と言って、皿洗いをしてくれても、洗い残し
があったり、洗濯物を干してくれても、しわ伸ばしをせずに
干したりして、作者にため息をつかせてしまう。
そんな夫の不器用さを見てきた作者は、年末の大掃除を夫
に頼むよりも、「煤逃」(掃除の足手まといとなるのを避け、
時間をつぶしに家の外に出ること)をしてもらった方が、か
えって作業がはかどると考えたのである。
「してもらふ」の措辞に、そんな不器用な夫だけれども、
夫のことをこよなく愛している作者の気持ちが感じられ、ま
ことにほのぼのとした句となっている。
蓮根のくびれ腰痛ぶり返す          三浦  郁
(『俳壇年鑑二〇二二年版』より)
背骨のエックス線写真を見せながら、医師が腰痛の原因を
説明した。医師の指さす部位には、確かに歪みが認められた
―腰痛のぶり返した筆者は、蓮根のくびれを見て、あの時の
エックス線写真を思い出したのだろう。腰痛は本当に辛い。
三浦さん、どうぞお大事に。