No.1089 令和5年1月号

井垣清明の書28

臨謝鯤墓誌

平成7年(一九九五年)十一月
板橋区書家作品展(板橋区立美術館)

釈 文

晋の故豫章内史・陳国陽夏(県)の謝こん(字は)幼輿。
泰寧元年(323)十一月廿日亡 くなる。仮に建康県
石子岡に葬る。陽大家の墓の東北数丈にあり。妻
は中山の劉氏。息は尚(字は)仁祖、女は真石なり。
弟は襃(字は)幼儒、(次の)弟は廣(字は)幼臨。
旧の墓は熒陽(河南省)にあり。

流 水 抄   加古宗也


新しき注連に掛け替へ神迎ふ
神の留守首を傾げし調律師
冬日暖か瓢亭の椅子に凭る
尾﨑士郎生家跡
大悟の碑を抱けば小春の日が笑ふ
冬日かつと差し高井戸の水のぞく
鳰潜く川ありかのり川と云ふ
レノン忌や若者の弾くギターの音
詩心ふとゆさぶる杜若帰り咲く
軍鶏鍋や太葱笊にてんこもり
田峯参拝
水汲みに来し観音の冬泉
堰堤の瀑布とも見え冬紅葉
寒狭川
老人がどんぐりを撒く鴛鴦の沢
鴨鍋や蓬莱泉と云ふ地酒
金山寺味噌買ふ鴛鴦の棲みし里
十二月八日列なし地酒買ふ
冬の虹かかる入会山の上
初冬の昼餉は五年えごまの香
長廊下尽きれば東司花八ツ手

真珠抄一月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


枯蟷螂目の色残し枯れゆけり       高橋 冬竹
ガラス戸に張り付き上る疣毟       堀口 忠男
冬日向坊主頭を撫で合ひぬ        鈴木 玲子
鴨の陣崩す消防観閲式          服部くらら
秋ともし梯子でのぼる女中部屋      加島 孝允
用水に冬の金魚や秋葉講         今泉かの子
リヤカーを除け白萩に包まるる      工藤 弘子
柚子風呂にさもなきことを想ひ出す    稲吉 柏葉
蜻蛉の恋の途中の潦           田口 風子
冬ぬくし魚臭もどれる島の路地      市川 栄司
星の入東風父の尺八聞えさう       江川 貞代
紅葉狩大河ドラマの旗なびく       荻野 杏子
鯖雲や河馬に貰ひし欠伸出る       大杉 幸靖
集魚灯耿耿出漁の秋刀魚船        酒井 英子
風穴に顔近づける残暑かな        山田 和男
笛方のからだごと吹く秋祭        丹波美代子
豆ほどの金璽に背伸び文化の日      小柳 絲子
秋惜しむ佳き日の写真みな黄ばむ     池田真佐子
伊勢の冬太き饂飩の茹で上がる      高濱 聡光
佐久島の道平らなる石蕗の花       中野まさし
秋の雨久に取り出すお針箱        新部とし子
カンナ咲く庭朝カフェの三世代      片岡みさよ
夫日々を資料読み込み秋灯下       今津 律子
紅葉山右はこれよりけもの道       杉村 草仙
和太鼓の気迫の連打文化の日       松元 貞子
冬に入る言葉の端に出るなまり      岡田つばな
百舌鳥高音温泉マーク発祥地       渡邊たけし
秋うらら妻の鼻唄ケセラセラ       石崎 白泉
稲刈や畦にゆがんだ薬缶あり       山科 和子
岬茶屋に貝焼く匂ひ鷹渡る        重留 香苗

選後余滴  加古宗也


用水に冬の金魚や秋葉講          今泉かの子
静岡県周智郡春野町に秋葉山という信仰の山がある。祭
神は火之迦具土(ひのかぐつち)神で、火難よけ(火伏せ)
の神として広く信仰を集めている。中でも十二月十五・十六
に行なわれる大祭は有名。また秋葉さんを祀る町や村では
ちょっとしたお供えをする。私は「秋葉講」を冬の季語と
していいと思うが意外に歳時記に入集していない。そこで
作者は「冬の金魚」とあえて「冬」を使ったのだろうが、
それはそれで金魚の美しさ強さを強調する効果があって面
白い。私の育った里にも秋葉講があって懐かしい一句とし
て取り上げた。
伊勢の冬太き饂飩の茹で上がる       高濱 聡光
伊勢路に一日を遊んだのだろう。「和田金」「おはらい町」
「海鼠餅」など伊勢路の名物・名所が次つぎに登場してすっ
かり伊勢路を楽しんでいる。そして、名物・伊勢うどんは
ただひたすら太く色気も素っ気も無いが如き食べ物である
ところが面白い。
星の入東風父の尺八聞えさう        江川 貞代
「星の入東風」という随分珍しい季語が使われている。
角川の大歳時記には「陰暦一〇月頃に吹く北東風をいう」
とあり、さらに「江戸中期の方言辞書『物類称呼』に中国
地方や畿内、また鳥羽や伊豆の船人の言葉として出てく
る。」と解説してある。ここまで読んでも、何がなんだか、
ちんぷんかんぷんだが、さらに「この星は昴(すばる)の
ことで、夜空に昴がよく見える季節になると天候が変わり
やすくなる。」とある。そして、いよいよ終りに「明け方
昴が没する時刻に吹きやすい風という。月や日の出入りが
日和と関係があるとの考えに基づいているが、実際の因果
関係はまだ不明である」と結んでいる。要するにこの季語
の本意はよくわからないということで、「父の尺八聞えさ
う」だが、聞えるかどうかの確信はない、ということになる。
全体の流れの中から、ひたすら父を懐かしんでいる、とい
うことだろうか。
紅葉狩大河ドラマの旗なびく        荻野 杏子
NHK大河ドラマの舞台になる地方は、毎年のことなが
ら一年程前から、町おこしのためのキャンペーンが展開さ
れる。市民、住民も皆、お祭りが大好きだから、ためらい
もなく、それに乗る人が多い。今年の大河ドラマの主人公
は徳川家康。作者の住む岡崎市は家康生誕の地で、この岡
崎を中心に四方八方へ伸びる街道沿いには大河ドラマ宣伝
の旗がなびいているのだろう。徳川の発祥地・奥三河方面
は紅葉の名所が多く街道筋の旗もさぞかしと思う。紅葉狩
もいってみれば祭好きの日本人にぴったりの行楽だ。
鯖雲や河馬に貰ひし欠伸出る        大杉 幸靖
鯖雲は秋の穏やかな天候のとき空にひろがる、「鯖雲」
と「鰯雲」もわずかなニュアンスの違いで、鯖雲が空に広
がり始めると「ああもう秋だなあ」と声に出したくなる。
作者はそんな上天気の中、動物園に遊びに出かけたのだろ
う。「河馬に貰ひし欠伸」とあるが、河馬ほどの大きな口
を持った動物はそんなに多くない。河馬のあくびをついも
らってしまったところに作者の何ともくつろいだ時間を見
ることができる。ひょっとしたら、こんなときを幸せな時
間というのかもしれない。
豆ほどの金璽に背伸び文化の日       小柳 絲子
中国の俑の公開が今年、名古屋市博物館で開かれ、大変
な人気だったようだ。俑というのは、中国で殉死者の代り
に副葬したもので、例えば兵馬俑は軍人と軍馬を形どった
埋葬品として有名だ。その俑の展示の中に金璽があったよ
うだ。周りの人々の背が高く、ごった返しており、しかも
金璽は余りにも小さすぎる。「豆ほどの金璽」を「背伸び」
しても見たいという執念が一句に定着している。ふと「金
印」を思い出した。
秋惜しむ佳き日の写真みな黄ばむ      池田真佐子
ものが黄ばむということは、古くなり傷んでくると生じ
る現象である。一方で、写真の世界では「セピア色」とい
う表現がある。そのセピア色を一般に白黒写真が黄ばんで
くるときに使っている。しかし、正しくは黒褐色をいうの
であってどこでどう写真の黄ばむのをセピアといったのか
私は知らない。ということで、「みな黄ばむ」は実感で黄
ばんでくると写真の輪郭もあやしげになり、呆けてくる。
即ち「みな黄ばむ」の心には思い出もあいまいになりつつ
あることへの淋しさが読み取れる。「みな」が強烈な措辞。
佐久島の道平らなる石蕗の花        中野まさし
私は佐久島に渡るとたいてい西港から東港へ海岸沿いに
歩くことが多い。この句のようにまさに「平ら」かな道で、
それは同時に島の暮しのおだやかさを象徴しているようで
もある。
過疎がじわじわと進行して久しいのが心配だ。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(十一月号より)


三師とも忌日は秋といふ奇縁         髙橋 冬竹
村上鬼城、富田うしほ、潮児の三師とも忌日は同じ秋、と
いう巡りあわせ。命がいつ終わるのかは、自然の采配による
もの。その不思議を詠みながら、そこに来し方を振り返り、
思いをいたす作者の姿があります。俳縁に結ばれた一人とし
てのあれこれ。秋という季節が誘う感慨、えにしの不可思議。
ひぐらしや湯漬で〆むる坊の膳        市川 栄司
湯漬けとは、お茶が普及する以前から食べられていた、ご
飯にお湯をかけたもの。「今昔物語」や「枕草子」にも記録
があり、武家の正式料理にも供されていたそうです。丹精に
作られた精進料理。そのお膳の最後はさらさらと。寺の周囲
からは、蜩の澄んだ響き、かなかなかなが聞こえています。
義母を恋ふ不思議宗旦木槿咲く        江川 貞代
宗旦木槿とは底紅のこと。宗旦は利休の孫。お茶席ではよ
く使われる茶花です。この季語の斡旋から茶道をたしなまれ
た方なのかも、と思いました。血縁ではなくとも、有縁の懐
かしい存在。木槿の花は一日花ですが、木は耐寒性もあり生
命力の強い木。思い出もまた、折にふれ蘇るのでしょう。
梨しやりり魔女のマントは干してある     大澤 萌衣
なにか楽しそうです。出かけるなら準備はできているので
す。秘密裏に事を起こす前の、胸の高鳴りを感じます。噛ん
だ梨のみずみずしさと、羽織るマントの乾いた軽さ。何かが
始まりそうな、ドラマチックな気配の「しゃりり」。
つくつくもみんみんもゐて泡子塚       鈴木 帰心
泡子塚(あわこづか)は、醒井宿の伝説による命名。西行
法師がこの泉で休憩した際、西行に恋をした茶店の娘が、そ
の飲み残した茶の泡を飲んだところ懐妊、男児を出産。帰途
再び立ち寄った西行が、一部始終を聞き「もしわが子ならば、
元の泡に帰れ」と祈り歌を詠むと、児は消えて元の泡となっ
たという。さて掲句。みんみん(夏)つくつく(秋)と鳴く
声は、命のはかなさや、また限りある命だからこそ今をと、
歌うかのようです。そして今もこの地を見守って。伝説を今
に伝える、切なくも明るく、力強い蟬の鳴き声です。
山路の暗きに節黒仙翁花           深見ゆき子
センノ(オ)ウゲ(カ)はナデシコ科のかわいい花。節黒
は節の部分が暗い色であるところから。山の道端の暗がりに
咲いていたのでしょう。花や木の名前がわからない時には、
いつも皆から頼りにされているゆき子さん。見過ごしてしま
いがちな足元にも、目を向ける細やかな心配りを思います。
子烏飼う任地はすべて大らかに        髙相 光穂
前後の句からこの地は新任教師の赴任先とわかりました。
細かいことは云わない土地柄、親と離れた子烏も無事に、ま
たそこで暮らす子ども達もきっと伸びやかに育つのでしょう。
肩紐を結んで少女サンドレス         鈴木こう子
蝶結びの紐。むき出しの肩のはつらつ。一読、少女の健康的
な爽やかさを感じます。中七の弾むような明るい調べも、サ
ンドレスの開放的な夏の空気感を増幅させているようです。
ドラムスティック振れば小鳥の来てをりし   黒野美由紀
前半の軽やかさに、小鳥が呼び寄せられるように来ていま
す。場面はドラムを叩くのではなく、スティックを振るその
撥さばき。或いは、遊び心で振ったそのたのしさ。心のまま
に振ったスティックの軽い動きに、いつの間にか小鳥が来て
いた、そんな自然との交歓のようなものを感じます。
桃匂ふ夜を覚めてをり病んでをり       稲吉 柏葉
桃が甘やかな匂いを放つ夜ですが、そこに身を委ねる甘美
さはなく、静かに孤独と向き合っている姿が想像されます。
床の中で目が覚めている状態でしょうか。自己を客観的にと
らえた詠みぶりに、どこか覚醒したような達観した印象を受
けました。邪気を払う霊力もある桃の香を鼻孔に、独りの夜。
マスクにもサングラスにも会釈して      廣澤 昌子
なんとフレンドリー。顔の半分が隠れるマスクにも、目の
動きが読めないサングラスにも挨拶されて。マスクは冬、サ
ングラスは夏の季語。となればこの句の季は秋、それとも無
季?心の広さからオールマイティ全季とも受け取れそうで
す。
木登りを覚えたる子ら柿の秋         岩田かつら
「覚えたる」の背後に広がる豊かさを思いました。いまど
き木登りのできる環境は限定されますが、幹をつかむ手や足
場の位置、そこから見える風景等、背景の広がりが想像でき
ます。また、下で見守る人の存在も。単なる体験ではない、
経験値につながるような力。そこにまつわる思い出もきっと
あることでしょう。懐かしさも感じる「柿の秋」です。
秋時雨昼を灯してなんでも屋         和田 郁江
冬の気配が近づいている秋の時雨です。照明を点けた「な
んでも屋」の店の明るさに、逆に辺りの薄暗さが際立ってい
るように思えます。蕭条たる秋の景に明るいひとところ。

十七音の森を歩く   鈴木帰心


冬りんご剥きつつ次の言葉待つ        白岩 敏秀
(「俳句四季」十一月号 『冬はじめ』より)
林檎ほど人の話を聴くのに適した果物はない。皮を剝きな
がら、話の間を適度に取ることができるし、剥いた林檎を微
笑みながら相手に手渡すこともできる。
秋に収穫した林檎を、冬に食べるために低温で貯蔵してお
くものが「冬りんご」である。とっておきの林檎を、食べて
もらいたい相手は、どのような人で、どのような話をしてい
るのだろう。そして「次の言葉」とは。想像が広がってゆく。
等身大パネルのやうな新社員         西生ゆかり
バナナの皮バナナの如く反りゐたる
内側のやうな外側捕虫網
(「俳句」十一月号 『胡瓜サンド』より)
この作者の比喩表現の巧みさに脱帽。
一句目 まだ硬さの取れない新入社員の様子を活写。
二句目 このバナナの鮮度がいかに良いかが分かる。
三句目 なるほど。だから虫は外に出ようとして網の内側で
捕えられてしまうのか。
作者の観察眼のなんと鋭く、発想のなんと柔軟なことか。
野分あと授業さぼってゐる匂ひ        箭内  忍
(「俳句四季」十一月号 『透き間の音』より)
台風は日常の平穏を破壊する。学校をさぼるという行為も、
授業という日課を逸脱する行為だ。特にこれまで皆勤だった
のに、始めて授業をさぼった時などは、大袈裟に言えば、自
分の心のちゃぶ台をひっくり返したような気分になり、なる
ほど、それは台風の後の惨状を見るような気持ちに似ている。
芋の露寄るや大陸漂移説           土方 公二
(「俳句」十一月号 『蘆刈』より)
「大陸漂移説」とは「地球上の大陸は、かつては一つある
いは二つの大陸であったが、地質時代に分裂、かつ移動して、
現在の状態になったとする説」(日本国語大辞典)だそうだ。
芋の葉が風に揺れ、葉の上の露が片方に寄る様を見て、作者
は、太古に地球上で生じた大陸移動のことを連想した。
芋の葉の露という極小の世界から大陸移動という巨視の世
界への視点の移動―原石鼎の句「蔓踏んで一山の露動きけり」
と響きあう句だ。
人造湖の月や一日だけの家出         遠山 陽子
(「俳壇」十一月号 『無帽』より)
「人造」という措辞から、作者が絵本の世界に入り込んで
湖の上の月を眺めているような情景が浮かんだ。非日常の時
間と場所への「一日だけの家出」―現実から解放される至福
のひとときも、その一日が過ぎれば、「絵本」の世界から抜
け出て、現実へ戻らねばならない―「だけ」の措辞が切ない。
盆僧の去年と同じ余談かな          谷岡 健彦
(「俳壇」十一月号 『産土』より)
盆僧も一軒一軒回る内、どの家でどの余談を言ったかを忘
れてしまう。歳を取ればますますそうなりがちだ。しかし、
作者はその余談を楽しくありがたく聴いている。それは作者
と僧侶とは長年の付き合いであり、同じ町内で共に歳を重ね
てきた大切な間柄だからだ。
俳諧味があり、またほのぼのとした気持ちにもさせてくれ
る句だ。
放たれて囮の鮎となりにけり          亀井雉子男
(「俳壇」十一月号 『豊の秋』より)
人間の人生にも似通ったことがあるだけに、この句の鮎に
は同情したくなる。解放されることが罠にかかること―人生
の苦い一面を観るような句だ。
惑うたか遊ぶか秋の蛇流る          相子 智恵
付録なる望遠鏡の小さき月
(『俳壇』十一月号「光尖る」より)
一句目
この句を読み、喜劇王チャップリンの次の言葉が浮かんだ。
人生はクローズアップ(大写し)で見れば悲劇だが、
ロングショット(遠写し)で見れば喜劇だ
この蛇は川の水に流され、生きるか死ぬかの状況にいる。
作者は、もちろんその蛇を憐れんでいる。しかし、その気持
ちを「惑うたか遊ぶか」と詠んだところに、人生を達観する
作者の眼差しを感じる。
近くで見れば、川の流れになす術もなく身をよじらせてい
る蛇の姿が、距離を置いて見れば、遊んでいるようにも思え
る。俳諧味の中に哀感のある句だ。
二句目
前書きに「今頃吾子の月見は」とある。所用で、我が子と
一緒に月見が出来なかった作者。その日の朝、子供は目を輝
かせながらこう言った―「ママ、きょうのよるは、このぼう
えんきょうで月をみるんだ」、と。
少年少女雑誌の付録は、本物には程遠いものであるが、子
ども達には宝物だ。付録の望遠鏡で月を見る我が子。ちっぽ
けな望遠鏡だから、見える月も小さなものだ。しかしそれで
も子どもにはわくわくするような楽しい時間なのだ。