No.1091 令和5年3月号

井垣清明の書30

臨嚴(ゲン)氏銅洗

平成8年(一九九六年)五月
第25回日書学同人展(銀座・松坂屋)

釈 文

蜀郡(四川省)の嚴氏は富昌(とみさかん)にして吉利(めでたくもうかる)なり。
子孫に伝へて主(あるじ)の萬年に宜(よろ)し。
(嚴氏の銅洗(洗面器)の吉祥語)

流 水 抄   加古宗也


寒四郎寺銭箱を抱きかかふ
寒晴や真紅眩しき日章旗
人はみな淋しさ抱きて寒北斗
冬の月赤城の山に忠治館
仰ぎ見る大樹は裸天真青
金塀風立てて黒松鉢仕立
熱き珈琲飲んで初富士仰ぎけり
朝粥に梅干一つけふ寒九
田峯観音
けふ寒九観音の水汲みに来る
大綿や刑場跡にポンプ井戸
寒鴉二羽がすつくと大欅
マネキンの素裸にされ春隣
バス停に女佇み春隣
寒雀神学校の小さき窓
寒夕焼マクドナルドのハンバーグ
雪降りつむゼロ番線に人を見ず
風花や聖母マリアは赤子抱く
お隣りにもらふ極太恵方巻
善男善女東西南北豆を打つ
節分や域の鬼門に祈祷寺

真珠抄三月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


雪の記憶高山に二十四日市       荻野 杏子
初泣きよ初笑ひよと双生児       荒川 洋子
忘れ物あるかに年の夜のひとり     工藤 弘子
観音の千手賑やか淑気満つ       田口 風子
どこからも山見え凍のゆるびたる    大澤 萌衣
幾つもの料理の匂ひ大晦日       石崎 白泉
春暁やへその緒切りし子を胸に     飯島 慶子
薺摘むや赤城の裾に腰すゑて      鈴木 玲子
塩部屋の小窓の揚戸初雀        長村 道子
猿廻し全身風に吹かれをり       竹原多枝子
冬ぬくし椅子にちょこんと座る人    鶴田 和美
年賀に来し嫁が手摺りを付けくれし   服部 喜子
初旅の盲導犬と乗り合わす       斉藤 浩美
賀状書くインク取り紙ずらしつつ    堀田 朋子
カウベルの音冷ややかに牛帰る     渡邊 悦子
化野に来ぬバスを待つ虎落笛      髙𣘺 まり子
千両を少し正して靴履けり       三矢らく子
数へ日や五箇山で喰ふ熊雑炊      鈴木 帰心
婆抜きに婆も加はるお正月       関口 一秀
難病の友に冬芽の誇りあり       加島 照子
旅立ちのリュックはひとつ今朝の秋   桑山 撫子
山門に米の置きあり寒施行       和田 郁江
一月や車輌の並ぶ車輌基地       川嵜 昭典
数へ日の戸口掃き出す交番所      池田真佐子
肋骨を折りて年越しままならず     服部  守
木のものは木の根へ返し春を待つ    岩田かつら
禿げきつて自慢されたり小晦日     高濱 聡光
寒晴れや整頓されしゴミ置場      松元 貞子
クリスマスB 鉛筆で書く返事      梅本ちひろ
初伊勢や外宮せきやの御饌の粥     長表 昌代

選後余滴  加古宗也


春暁やへその緒切りし子を胸に       飯島 慶子
「へその緒切りし子」とは、へその緒を切ったばかりの子、
つまり、生まれてまだ間もない子のことだ。赤ちゃんを抱
き、はじめて子を得た喜びを実感するということだろう。
〝ハダ〟という表現があるが肌で感じる喜びこそ、人間の
本能に根ざした喜びというもの。「春暁」という季語の斡
旋によって赤子の未来が開かれたという思いが強く働いて
いる。

一月や車輌の並ぶ車輌基地         川嵜 昭典
「一月」という季語によって「一」という数字の面白さが、
これでもか、というように一月の連作の一句ごとに立ちあ
がってくる。
車輌基地に並ぶ車輌の一本ずつは一本、二本、三本と数
えて楽しむことができる。電車好きの楽しみというのは、
車輌の形だけでなく、このように並んだときの美しさ、そ
して、数えること自体の楽しみもある。「基地」という言
葉も象徴力があり、一句をひきしめている。

一月や遠くに父の故郷ある         川嵜 昭典
真直ぐ向こうに父の故郷があるとだけ叙しているがそれ
がむしろ自分のルーツを指す父の故郷であるところに深い
思いを見る。いうまでもなく、物理的な方向をさしていな
がら、真実を見据えようとする心になっている。「一月」
は一年の始め、である。そして、一は数字の最初である。
真直ぐで最初。これほどシンプルな表現をした俳句を久し
ぶりに見た。あえて似た句をあげるとすれば「一月の川
一月の谷の中 龍太」がある。

どこからも山見え凍のゆるびたる      大澤 萌衣
上州は上毛三山に代表される高い山々に囲まれたところ
だ。その上州で生まれ育った人なれば得られた秀作だとい
えよう。こういう俳句は作為を超えたところで成立する。
「凍のゆるびたる」の感性が素晴らしい。

塩田に犬の足跡初御空           長村 道子
私が子供の頃には西尾市一色町には広大な塩田があっ
た。吉良町に塩を造っているところがあって、こちらは私
が大人になってからも、しばらく見ることができた。一色
の塩田に対して吉良は条架式と呼ばれる製塩方法が取られ
ている。現在は小さいながら塩田が復元されていて、この
句はそこで作られたものかもしれない。吉良はその昔、餐
庭塩と呼ばれた塩田があって、例の「赤穂浪士・忠臣蔵事件」
の原因の一つとも言われている。塩田は真平らに砂が広げ
られて、潮をかけては乾かし、また、潮をかけては乾かす。
私の知人に塩を生産していた人がいて、子供の頃によく塩
田で遊んだ記憶がある。広い面積が見事に均されており、
子供心に美しいと思ったものだ。そこに「犬の足跡」。「初
御空」という季語の斡旋が、真白で、真平らの塩田をきわ
だたせた。塩田の姿を見事に言い取っている。

猿廻し全身風に吹かれをり         竹原多枝子
大道芸の一つ「猿廻し」。これまで何度か見たことがある。
一度は豊川稲荷の初詣の折りに境内の一角で、もう一度は
現在は豊田市に入ったが、紅葉で有名な香嵐渓の休憩所に
なっている三州足助屋敷の前の広場だ。「猿廻し」は歳時
記では新年の部に入っており、「猿曳(さるひき)」「猿使ひ」
と呼び、新年の門付けの一種だ。猿を長い紐で結んで、そ
の紐を操作して猿をあやつる。太鼓を叩いて場を盛り上げ
る。その昔は、馬と関係の深い武家や農家の厩で演じられ
た、一年の無事を祈るためのものだったようだが、今は全
く大道芸といってもいいものになっている。したがって、
吹き晒しの広場だ。猿廻しも猿も一所懸命に芸を見せる。
北風の中の芸はじつにけなげといっていい。作者の心は面
白さと哀れがないまぜになっているのだ。

観音の千手賑やか淑気満つ         田口 風子
観音菩薩には様ざまな姿があるが、その一つが千手菩薩
だ。衆生(しゅじょう)を直ちに救済できるように千の手
を持っている菩薩のことで、観音像に千の手があるという
のではなく、非常にたくさんの手を持っているという意味
だろうと思う。背中からたくさんの手が生えている様子を
「賑やか」と表現して、観音の明るさ、ありがたさを表現
している。加えて「淑気満つ」という季語の斡旋が見事だ。
千手から淑気が出ている、という捉え方は、じつに新鮮で
楽しい。

婆抜きに婆も加はるお正月         関口 一秀
駄洒落に近い一句だが、けっして下品ではない。ついク
スッと笑える一句だ。正月の一家団欒の様子が暖かく表現
されて過不足がない。

寒晴れや整頓されしゴミ置場        松元 貞子
ゴミ置場はゴミ置場ゆえにたいていが雑然としているこ
とが多い。「寒晴れ」のきりりとした空気が、ゴミ置場も
自然に整頓しておこうという思いに誘うのだ。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(一月号より)


蹲踞の律呂ととのふ石蕗は黄に        服部くらら
蹲踞は茶室の庭に低く据えられた石の手水鉢。最近は風情
を出すためか、普通の庭でも見かけます。律呂(りつりょ)
は陰と陽の音律。中七の措辞から、きちんと石を組み、周り
に灯籠や樹木を配した立派な設えの茶庭のように感じます。
その音の調子が整うとは、手を清める水音やその後の静けさ
のようにも、また広義には、格式ある庭の景色、気配のよう
にも受け取れます。さらに、秋の感じを表す季語「律(りち)
の調べ」を背景にしてみると、ここには季節が正しく移って
ゆく、自然の理も感じます。今は冬。この時を尽くすかのよ
うに石蕗の花が咲いています。

小鳥来て蹲ひの水弾きをり          工藤 弘子
こちらのつくばいは、きっと手水鉢に二三の石を置いた簡
単な造りの庭に置かれているのでしょう。小鳥がやって来る
安全で開かれた空間。小鳥が水を飲んだり、水浴びしたり。
はじかれた水のきらめきに、手を清める水の清浄さもあるで
しょうか。弾くは、楽器の弾(ひ)くに通じます。期せずし
て、重なりつつも趣を異にする、前出句の蹲踞と音の調べ。
季語の力で、それぞれに違う味わいの世界が開かれています。

子育てに悔いひとつ有り青みかん       重留 香苗
炬燵にみかんが置かれた光景は、かつて冬の団らんを象徴
するものでした。子育ては、同時に親も育てるといわれます
が、過ぎてみてわかることがあります。まだ色づいていない
酸っぱさの青に、自ずと重なる悔いの心情。偽らざる真情。

滝の絵に森の声あり秋深し          関口 一秀
心耳がとらえた声でしょうか。この絵は風景画ではなく、
千住博氏の画期的技法による作品。水が落ちるように、絵の
具自体を上から流して表現した「ウォーターフォール」。作
者は絵を前に、滝を育んだ大いなる自然から、森のメッセー
ジ或いはささやきを聞いたのでしょう。深まりゆく秋、内な
る声に耳を傾けて。

爽やかや修道院にベトナム語         鶴田 和美
寄り添うことのやさしさが、季語をより清々しいものにし
ています。日本の働き手として下支えをしているのは、技能
実習生と呼ばれる人達。その中でもベトナム出身者が、今の
日本の頼みの綱という記事を見ました。修道院は、あまねく
人にひらかれている所。遠く祖国を離れた地で、母国語を目
に祈りを捧げる場は、自ずと心安らぐ場になるのでしょう。

縫ひ針のうすき油気つはの花         丹波美代子
今はわかりませんが以前縫い針は、錆止めのため錫の金属
箔や薄紙に包まれていました。また、縫い針で頭をかく動作
は、頭の脂か髪の毛の油分が、針の進みをなめらかにすると
いうことだったと思います。そんな遠い日の記憶が、ノスタ
ルジーをもって蘇ります。また「うすき油気」のつやつやと
した感じは、つわぶきの葉の光沢にも重なるようです。

天高し我に句友のありてこそ         磯貝 恵子
一人の喜びは、二人になればその倍の喜びに。堂々と胸を
張って、今生きてあることや、俳縁のつながりに歓呼の声を
あげているようです。単なる同好の士を越えて、信頼できる
友の存在。まさしく人に恵まれることは財産と思います。

住み馴れしここが大好き草もみぢ       犬塚 玲子
地面から近いところに生える草の低さと、人が居を構えた
土地に長く住んでいる安定感が、地続きにつながっています。
小さな名もない草の色づいた様子と、その地になじんで暮ら
す日常感。日々の生活の場に草紅葉がそっと彩りを添えて。

稲穂波左木曾駒右天竜            加島 孝允
漢字だけの表記にきっちりとした句の調べ。また内容も、
大きな景の中に豊かな秋の実りが詠まれ、格調の高さを感じ
ます。たたなづく山々を背景に、信州の地をわたってゆく黄
金色の風を思います。豊の秋、伊那谷への挨拶のよろしさ。

余生とは風になること秋桜          岩田かつら
素敵です。こんな心持ちで毎日を過ごせたら。昔あった
「雲の如く高く雲の如くとらわれず」の額を思い出しました。
秋桜が風に靡きながら、時にはなぶられながら咲くように、
人も咲(わら)いながら受け流して、風のふくままに…。

枕辺を這ふ寒雷や淡海泊           安井千佳子
淡海泊(うみどまり)は、琵琶湖近くでの宿泊。その旅枕
に聞いた寒中の雷。「這ふ」の措辞が、耳元にまでくる臨場
感を生んでいます。雷鳴轟く空の高いところから就床の低い
ところまで忍び寄るように伝わる振動の恐ろしさ。夜の闇に
包まれた空間の広さに、寒雷の厳しさがまた一段と思われま
す。

神の留守傘寿女子会大騒ぎ          石川とわ子
どうぞ存分にやっちゃってください。今は、神様も旅に出
かけられご不在です。めでたく八十歳を迎えられた女子の皆
さま。お互いに話し飲み食べ、闊達にふるまえる場がまた明
日の活力になるのでしょう。

十七音の森を歩く   鈴木帰心


ほがらかに道汚しゆく耕耘機         齋藤朝比古
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
「ほがらかに」の措辞から、この村の情景が立ち上がって
くる。田畑の広がる村。村人は大人から子供まで全員の顔と
名前を知っている。村全体が家族のようにごく自然に助け
合っている。とれた野菜を誰かが玄関に黙っておいていく。
農作が日常の村だから、耕耘機が道を汚すのも当たり前の
光景。たっぷりと余白のある、のどかな村の空気感が、「ほ
がらかに」の一言で伝わってくる。

姑と眺め義妹の雛かな            松本てふこ
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
掲句からは、幾重もの人間模様が見えてくる。
姑は雛を眺めつつ、我が子と歩んできたこれまでの時間を
振り返っている。嫁である作者は、義母とはまた別の思いで
その義妹の雛を眺めているのかも知れない。
作者、義母、義妹、さらに、句には現れていないが、義父
や夫―それぞれが同じ屋根の下でどのような思いで暮らして
いるのだろうか。さまざまな想像が広がっていく。
筆者は、掲句から家族の温かい心の通い合いを感じた。

蛇口より金臭き水夏の空           仙田 洋子
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
「金臭き水」は、昭和の時代にふんだんに飲んだ。あの時
代、浄水器もペットボトルもなかった。まして、水を店で買
う時が来るとは思ってもみなかった。膝を擦りむけば、赤チ
ン、ヨーチン。水は蛇口に口を近づけて(時には蛇口をくわ
えて)「金臭き水」をごくごく飲んだ。掲句を読み、小学校
の教科書に載っていた次の詩を思い出した。

水                大関松三郎
大きなやかんを
空のまんなかまでもちあげて
とっくん とっくん 水をのむ
とっくん とっくん とっくん とっくん
のどがなって
にょろ にょろ にょろ つめたい水が
のどから むねから いぶくろへはいる
とっくん とっくん とっくん
にょろ にょろ にょろ
息をとめて やかんにすいつく(以下略)

この詩のような爽快感は、あの時代だったからこそ味わえ
たのかも知れない。懐かしき昭和の「夏の空」。

リコーダーのふつくら響く夏館        谷口 摩耶
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
「ふつくら」の措辞がなんとも魅力的。リコーダー、とり
わけ、木製のアルトリコーダーが奏でる音色のなんとふくよ
かなことか。リコーダーの音が館内に響く。清らかな水が心
の中を流れていくような心持ちがする。季語「夏館」との取
り合わせも素晴らしく、清潔感のある句だ。

巨峰食ふ少し大きくなる心          山田譲太郎
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
「少し大きくなる心」の措辞が秀逸。幼い頃、小さな口で
大きな巨峰を頰張ると、喉が開くと同時に「心の扉」が開
き、心が膨らむような気持ちになった。心を「少し大きく」
してくれるものは、巨峰のような果物だけではないだろう。
書物や人との話で出会った言葉、あるいは、憧れている人の
姿を見た時にも、自分の心が大きく広がる。出会いは宝だ。

去年今年源流いまも沖へ注ぐ         辻 美奈子
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
掲句は、虚子の句「去年今年貫く棒のごときもの」と響き
あう。「源流」の措辞から師系という言葉が浮かぶ。源流か
ら沖へと俯瞰する作者―源流には師の姿が厳然として存在す
る。そして下五の字余りからは、作者を含む後継の句友の成
長を誇らしく思う気持ちと、師系を守っていこう、という作
者の使命感が伝わってくる。

煮凝の用心深きかたさかな          山口 昭男
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
「用心深きかたさ」とは言い得て妙。なるほど煮凝を箸で
掬う時、そのような、なんとも言えない「かたさ」を感じる。
確かに煮凝は固まってはいる。しかし、温かいご飯に乗せる
と、呆気なく煮汁へと姿を変える。煮凝には、熱に遭うまで
のとてもデリケートな「かたさ」がある。
ひとの人生もそのような一面がある。いくら用心に用心を
重ね、身を堅固にしていても、突然の惨禍にはひとたまりも
ないーそんな人間のありようは煮凝りに似ている。

一寸の雪にあれれのれと転ぶ         山地春眠子
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
気をつけて雪道を歩いていたのに、あっという間もなく転
んでしまった。作者はそんな自分の姿を「あれれのれ」と詠
んだ。
その後、作者はいかがだったのだろうか。大事に至らなかっ
たならいいが。「あれれのれ」の措辞のもつ俳諧味に読者は
救われるが、でも心配だ。
春眠子さん、お大事に。