井垣清明の書31善 進 善平成8年(一九九六年)六月 釈 文善は善を進む(『国語』晋語) |
流 水 抄 加古宗也
立春大吉一休寺を訪ねたり
立春大吉の札貼つてあり丹塗門
小浜・高山寺
放哉にゆかりの寺や雪残る
大庫裏の奥で犬鳴く春の雪
三州足助
土雛並べ土蔵の二階部屋
雪解水もて太葱を洗ひをり
残る雪郡上地鶏の放し飼
南木曾には木地師多くて雪解風
角折れてより春雪の横なぐり
青森・八戸回想
海猫こぼれさう産卵の蕪島
海渡る気配を見せて蕪島
料峭や尾張藩祖の墓大き
殉死墓囲む玉垣風二月
土人形師を訪ふ
ぐびぐびと酒は呑むもの蕗の味噌
神島は目の前にあり浅蜊汁
伏見には酒蔵多し雀の子
風待ちの岬デコポン鈴生りに
藤は芽を吹く圓空の入定地
鶯や吉良の仁吉は笛が好き
真珠抄四月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
鉄床の底光りして雪もよひ 小柳 絲子
蝋梅の香や貫木は神木に 天野れい子
魚氷に上る本に二本の栞紐 田口 風子
長き介護終えた話を聞く二月 竹原多枝子
少年が作文を書く雛の間 荻野 杏子
赤福の薪を積み置く二月かな 川端 庸子
雑巾を干して帰りぬ寒稽古 加島 照子
冴返る毒薬瓶の黒ラベル 奥村 頼子
鸛の沼白鳥に占めらるる 堀口 忠男
指先に走る電流余寒なほ 工藤 弘子
リハビリの送迎を待つ春を待つ 磯村 通子
白息や目覚めの馬の胴震ひ 平井 香
寒晴やここらを統ぶる伊達鴉 堀田 朋子
冬暖か止まることなきチェロの指 鶴田 和美
五箇山や平飼ひ鶏の寒卵 鈴木 帰心
ポストまで走る刹那や春の雪 関口 一秀
鴨ゐれば人は足止め鴨を見る 烏野かつよ
塩引や塩を鱗の中にまで 堀場 幸子
ありふれたニュース陽炎へる交差点 大澤 萌衣
しきたりを守る士族の小豆粥 中井 光瞬
大寒やガラスめきたる水明り 稲石 總子
海鼠腸の試食頷く好好爺 長村 道子
恋猫の絶叫に夢断たれけり 新部とし子
殿にいてたんぽぽの絮とばす 渡辺よね子
春寒やもっと運動増やさねば 服部 守
オリオンや聖書の中の赤きルビ 水野 幸子
ベビー椅子の加はる膳や春隣 堀田 和敬
前にしか進めぬ飛機や冬空へ 岡田真由美
焙りたるするめ一枚どんどの火 平田 眞子
恋の猫塀に二つの影走る 春山 泉
選後余滴 加古宗也
冬暖か止まることなきチェロの指 鶴田 知美
チェロという楽器は私の最も好きな楽器の一つだ。柔ら
かなあの音色は心をもみほぐすようにひびく。「止まるこ
となきチェロの指」とは長い時間、演奏が続いているとい
うことであり、その演奏を全身で受けとめているというこ
とに違いない。演奏の良し悪しをいう前にチェロそのもの
の音色にすっかり魅せられている様子が好もしい。指の移
動によって音が変化する弦楽器の魅力はチェロに生命力を
享受する魅力でもある。
少年が作文を書く雛の間 荻野 杏子
雛飾りは女の子の成長を願う祭りであると同時に、雛に
は形代の意味が込められている。夜中にこっそりと雛の間
をのぞくと、雛たちがお喋りをしている。という話しは古
くから語りつがれているところで、少年にとっても雛たち
は心強い仲間でもあるのだ。男の子も女の子の祭の中に少
しの場と時間をもらうことは好奇心とともにとても自然な
ことだ。そして雛という仲間がそこにはいる。
寒晴やここらを統ぶる伊達鴉 堀田 朋子
「伊達鴉」が面白い。俗に「伊達男」という言葉があるが、
「広辞苑」では「しゃれ男」または「侠客(きょうかく)」
のこととある。俗にいう格好いい!というやつだが、鴉に
は、ときにそんな仕種を見ることがある。寒晴の中、忽然
と高い枝、あるいは高い屋根の上に舞いおりた鴉の姿はま
さに「伊達鴉」と呼ぶにふさわしい。「ここらを統ぶる」
がすこぶる面白い。
指先に走る電流余寒なほ 工藤 弘子
指先に電流が走るような感覚に襲われることが、ときと
してある。たいてい寒さの厳しいときで、それは大事とい
うほどのことはない。ないがどきっとするほど驚かされる
のも確かだ。この一句「余寒」がじつによく効いている。
立春も過ぎ、つい心に隙が生れたところに一撃だ。「油断
大敵」という言葉をふと思い出す一句。
お位牌の十四柱底冷す 天野れい子
この一句、前書が無いとわかりにくい。つまり、岡崎市
にある徳川家の菩提寺・大樹寺で詠まれたものだ。岡崎市
民は無論のこと家康ファンならたいてい知っている寺。東
京は芝・増上寺、上野の寛永寺、そして、家康・生誕の地
岡崎・大樹寺が徳川の三大寺院ということになるだろう。
その大樹寺には歴代将軍の位牌が祀られており、それが全
てそれぞれの将軍の身長と同じ高さでできている。これは
ちょっと珍しい。そこで元に戻って「十四柱」だが、この
ことを多くの徳川ファンも大樹寺ファンも意外に知らな
い。そして、その間隙を突いた一句として面白い。何故
十四柱か、その答えは十五代将軍・慶喜の位牌がないのだ。
家康を始め十四代までは浄土宗の門徒であったが、慶喜は
神道に転宗してしまったのだ。どうして浄土宗を捨てたの
かについては諸説あり、一篇の小説が書けそうな推論が出
ている。
作者の住む岡崎市はいま、NHK大河ドラマ『どうする
家康』ブームで大変なにぎわい。その連動で安城市も西尾
市もときにならぬにぎわいを見せている。「蝋梅の香の貫
木も神木に」も家康敗走の折りのエピソードに登場する。
五箇山や平飼ひ鶏の寒卵 鈴木 帰心
作者はこの頃、何回かにわたって、富山県の合掌集落で
有名な五箇山を訪れているようだ。五箇山がすっかり好き
になったらしい作品が度々登場してくる。合掌家に何世代
かが一緒に暮らし、農業・養蚕その他を共同で営む。冬の
間は豪雪地帯として知られ、古くは加賀藩の流刑地にも
なっていたようだ。
ゲージの中に入れられた鶏の卵ではなく「平飼」という
のが素朴であるというだけではなく、健康的な鶏であるこ
とが思われ好ましい。ちなみに、五箇山では加賀藩のため
の硝煙づくりがひそかに行われていた。
雑巾を干して帰りぬ寒稽古 加島 照子
武道の寒稽古なのだろう。武道は「武士道」にも通じる
もので、技巧をみがき、体力を養うだけでなく、心を磨く
ことが第一義のようだ。禅修業の第一が学問ではなく作務
であることとも通じるもので、稽古が終れば道場の床に雑
巾がけをし、さらにその雑巾を干して帰る。それは寒中の
しびれるような冷たい水であっても怠りは許されない。作
者は長く弓道をやっていると洩れ聞いたような気がする。
冴返る毒薬瓶の黒ラベル 奥村 頼子
はっとさせられる一句だ。それは「毒薬」であり「黒ラ
ベル」だ。黒色は緊張を呼びこまずにはおかない色で、そ
れに拍車をかけているのが「冴返る」という季語だ。作者
の薬剤師としての経歴が言葉の斡旋をゆるぎないものにし
ている。
竹林のせせらぎ 今泉かの子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(二月号より)
凩や信長像は弓を引く 髙橋 冬竹
凩は風がまえに木を入れた和製漢字(国字)だそうですが、
中七下五のもつエネルギー量と見合う上五の二字。自らを
「第六天魔王」と名乗ったとされる信長が、矢を放たんと構
えた像なのでしょう。凩の、葉を吹き散らし木を枯らさんと
するほどの容赦ない強さは、宗教的権威をもつ延暦寺へ「弓
を引く」焼き討ちを行った、信長のおそろしさを象徴してい
るかのようです。強力な個性を放つ役どころとして、木村拓
哉と岡田准一の両者が、それぞれの魅力で存在感を示したの
も、記憶に新しい。
赤ポスト真つ赤小春日を投函す 田口 風子
たまたま、その投函する場に居合わせました。知多岡田郵
便局は、文化財にも指定されている現役最古の局舎。前もっ
て、準備されていたのでしょう。吟行で訪れたその日、ガイ
ドの方が目の前で、局舎の前の真っ赤なポストへ投函された
のです。陽ざしの暖かさに心配りの温かさ。多くに恵まれた
穏やかな小春の日に、合わせ技のように詠まれた、即吟の妙。
大根をもらつて帰るには遠し 中井 光瞬
わかります、この心もちこの思案。煮ても焼いても、サラ
ダにしても、薄くスライスして鍋に入れても、何かと便利な
大根です。元気があれば遠い帰路も気にはなりませんが、近
頃の我が身を思うと(私の場合)、はて如何せん。新鮮な大根
の臨場感を重量感と共にあっさりと詠んで、俳味もまた格別。
冬ぬくし臨江閣の長廊下 春山 泉
臨江閣は、群馬県前橋市の迎賓館として建てられた、利根
川を望む壮大な建築物。その堂々たる様子や美しく整備され
た庭園は、明治の上州人の気概の表れとか。佇まいだけでな
く、りんこうかくの響きにも凛としたものを感じます。ま
た、バランスよく配されたカ行音が、句全体の韻律を引き締
めてもいるようです。硝子越しに冬の日差しが差した廊下は、
明るくあたたかな空間なのでしょう。前橋の詩人、萩原朔太
郎もかつてここで華燭の典を挙げたとか。「関東の華」とさ
れる前橋。いつか訪れてみたい名所の一つです。
幼な子に目をふさがれる新年会 桑山 撫子
あどけない子どもの無邪気さが、まだ磨かれていないあら
たまに宿る光のようでめでたく、さらに新年の改まった雰囲
気に宴会のお祝いムードが合わさっての晴れやかさ。作者の
心も、程よくほぐれた感じが伝わります。目をふさがれたこ
とへのちょっとした驚き。天真爛漫ともいえるふるまいを受
けた、小さな喜びもそこにあったでしょうか。人との接触を
避けた三年を過ぎて、漸く開かれた新年会。より華やいだ場
になったことでしょう。
伊勢神を抜け初雪の景開く 原田 弘子
よくぞ詠んで頂きました。「伊勢神」はいつも通る一五三
号線のトンネル。狭くて暗いトンネルを抜けると、一気に雪
の景色へ。抜け、開くの措辞に、雪の白さが明るさとなった
開放感も感じます。今は「新伊勢神」が着工中。肝試しで有
名な旧「伊世賀美」隧道は、ラリーのコースにもなりました。
雪吊や縄百本を地に放つ 堀場 幸子
下五の思い切りの良さが、縄がそのまま一直線に地上を目
指し、走るような勢いとなって、美しくも緊張感のある光景
が立ち上がってきます。空間をバランスよく縄を張る、庭師
の技。特に金沢の、通称りんご吊りといわれる雪吊の技法
は、木より高いところから放射状に縄を張ります。冬の風物
詩を今も受け継ぐ、職人の心意気まで伝わってくるようです。
天狼やサムライブルーのテレビ塔 橋本 周策
サムライブルーはサッカー日本代表チームの愛称。ブルー
は、国土を囲む海の色からとも、伝統色の深い藍から来る勝
(ち)色からとも。W杯では、強豪国相手に逆転勝ちを果た
した、森保監督率いるもりやすジャパン。日本中を熱狂させ
るも、ベスト8の壁は厚くpk戦の末、敗退しました。掲句。
天狼シリウスは、全天で最も光を放つ青白い星。その下、地
元名古屋に立つのは、ブルーにライトアップされたテレビ
塔。凍て空には星が、地上には塔が、それぞれ放つ光彩は全
く異なりますが、ともに青めいた色味です。約八年をかけて
地球に届いた星の光と、人の生み出した電気による電飾の光。
上・中・下にある長音の重なりが、滑らかな響きを生んでい
ます。
ひすい掘る人に冬波親不知 鈴木 恭美
現在、日本の国石とされているひすい。主な産地は糸魚川
周辺です。採取できるのは天然記念の指定から外れた流域で、
冬が最も適した季節とか。取るのではなく掘る方が、きっと
実状に即しているのでしょう。親不知は昔から有名な難所。
そんな現場の厳しさに、冬の波の冷たさがいっそう募ります。
廟の闇深む近江の雪女郎 安井千佳子
廟とは鎮魂の為の建造物。信長でしょうか、わかりません
が、歴史に名だたる人の御霊が祀られた所です。夜の帳が下
り、深まる闇に現れた雪女郎。その凄絶な白さ優艶さに、ふっ
と引き込まれそうな。そんな淡海の、幻想的な雪の夜です。
一句一会 川嵜昭典
神無月本買つて飯代もある 菅野 孝夫
(『俳壇』二月号「つんのめり」より)
「神無月」という季語が効いている。食べるより先に文学
があり、そんな生き方を自己肯定するような図太さが「神無
月」という季語からは感じられる。また、神無月の、清々し
い風がその心意気を更に美しく見せているようでもある。季
語が動かない。
寒波来る帆船の綱緩びなし 西村 和子
(『俳壇』二月号「はつふゆ」より)
「寒波来る」という季語の厳しさに「綱緩びなし」と呼応
する言葉がぴたりと嵌っている。これが「緩びなく」という
連用形の下五だと句が流れてしまう。「緩びなし」と終止形
で言い切ったところに、その帆船を所有し、寒波に対応しよ
うとする人の取り組み方までも見えてくる。それは、自然に
無理に対抗しようとはせず、自然を受け入れた上で一つ一つ
をしっかりと行おうとする姿勢であろう。それぞれの季節、
事象に、丁寧に向き合う人の美しさがこの句にはある。
そつと立つ紙の人形十三夜 渡部有紀子
(『俳壇』二月号「まづ石を」より)
第三十七回俳壇賞受賞作品の中の一句。十五夜で飾った名
残だろうか、紙の人形飾りが立ててある。上五の「そつと」
には、どこか十三夜という季語に共通する陰があり、また
「立つ」という表現には、「立てて」ではない、あたかも人形
が自分の意思で立っているかのような面白さがある。どんな
に人が知見を積み重ねても、全ては分からない月や宇宙のエ
ネルギーを、作者と共にこの人形が受けようとしているかの
ように思える。十三夜という季語の持つ不思議な奥行きをう
まく捉えている。
小春日の縁側で書く欠礼状 加藤ゆうや
(『俳壇』二月号「七五三」より)
上五中七の「小春日の縁側で書く」まで穏やかに読み進め
ると、下五の「欠礼状」で少しびっくりする。だが一方で、
小春日の中で故人のことを考えながら欠礼状を書くというそ
の行為は、とても穏やかなものであり、作者の中で、悲しみ
よりも故人との温かな思い出が勝っているのだろうと思い直
す。確かに意表を突いた俳句ではあるが、そのような技術的
なことよりも、作者の感動が強く滲み出る句であると思う。
かざはなと一人が言いて木のベンチ 池田 澄子
(『俳句四季』二月号より)
「雪が降った」と言わない、「かざはな」だと言ったのであ
る。ちょっとした違いだが、自然に対する繊細な反応が美し
い。「雪」と言うと少し冷たくなってしまうが、「かざはな」
と「木のベンチ」の取り合わせは、冬の中にも温かな息遣い
を感じさせる。
裸木の見える窓辺にいて抜け殻 夕雨音瑞華
(『俳句四季』二月号「船二便」より)
人間の抜け殻は、今後に向けて力を蓄える、いわば猶予期
間である。裸木もそうで、葉を落とした木は、春に向けての
力を蓄える。ただ、人間と木とで違うのは、木は毎年繰り返
される通常の事象なのに対して、人間の抜け殻は、何か重大
なことが起こったときにそういう状態になるというところ
だ。作者はこの窓辺にどれくらいの間いたのだろう。裸木に
自分を重ね合わせ、それこそ自分の心の中に葉が茂ってく
るまで待ったのであろう。そのような中にいても俳句を詠
むところが俳人として興味深く、また共感できるところでも
ある。
芭蕉忌や捨てねばならぬものばかり 江崎紀和子
(『俳句四季』二月号「七つ道具」より)
少しどきっとする句。いろいろな解釈があるにせよ、芭蕉
は確かに「私意を捨てる」「恨みを捨てる」など、作句にお
いてさまざまな捨てる、と思われるものを言葉に残してい
る。しかし、掲句の下五の「ものばかり」という言葉は、作
句の上のものだけではないようにも受け止められる。すなわ
ち、芭蕉の生きた時代と比べて、消費物も情報も現代は溢れ
ているので、日常でも取捨選択しないと気が狂いそうだ、と
心が叫んでいるようにも受け止められるのだ。少なくとも俳
句においては、もっともっと自由になろう、とこの句を読ん
でそう思う。
雪乗せて何処から来たのかと思ふ かまた純子
(『俳句四季』二月号「デコロール」より)
路上でもボンネットや屋根に雪を乗せている車を見ると、
思わずその車のナンバープレートを見て、どこから来たのだ
ろうと思ってしまうが、掲句ではもっと発展させて、お客さ
んが家に来たときに、そのお客さんが頭や肩などに雪を乗せ
ていた、などと想像しても楽しいと思う。いずれにしても俳
句は十七音の情報だけしかないので、読み手は受身にならず
にあれこれと口を出す方が鑑賞としては楽しい