No.1093 令和5年5月号

井垣清明の書32

大富昌楽未央

平成9年(一九九七年)一月
第15回日書学春秋展(銀座・松坂屋)

 釈 文

大いに富み昌(さか)え、楽しみは未(いま)だ央(つ )きず。

(吉祥語)

流 水 抄   加古宗也


この辺り棒鼻と云ひ茅花穂に
絵踏板あり深彫りの傑刑図
木の根明く野兎の目の赤ければ
阿蘇山にて
山焼きの香や濃し大観望に佇つ
ナップサック肩に蓬を摘む子かな
兄妹らし門川の芹を摘む
釈迦堂の前の日溜り土筆摘む
レジ袋いつぱいに摘む土筆かな
銅鐸の埋もれゐし墳土筆生ふ
大浅蜊焼いて恋路ケ浜の茶屋
長崎・外海
春潮やオラショオラショと云ふ祈り
梅東風や大道芸の炎吐く
柳絮飛ぶやオカリナを吹く男来て
塾終へて帰る少年酸葉噛む
畑隅に土竜穴あり野蒜摘む
竹箒もて野火の舌叩きをり
竹箒作る名人野火仕切る
わらび野や猪のぬた場の新しき
墨を磨る女小指を立てて春

真珠抄五月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


折鶴を一羽置き呉れ卒業子      重留 香苗
獺の祭や駄句ばかりなる句帳     石崎 白泉
残る鴨幸せだからここにゐる     堀田 朋子
朗々と地鎮の祝詞草青む       新部とし子
草餅や粗にして甘き母の味      市川 栄司
雛飾る町割美しき城下町       池田真佐子
畦焼の甘き煙に燻さるる       鶴田 和美
梅の寺阿闍梨の草鞋飾られて     工藤 弘子
指で溶く絵の具鈍色多喜二の忌    加島 照子
控へ目に一揆の寺の梅ひらく     水野 幸子
葛若葉大和八木までバスで行く    高濱 聡光
雀の子被爆ドームの水を飲む     中井 光瞬
厠にも志功の天女竜天に       鈴木 帰心
池に残る鴨を数へて小半時      荒川 洋子
風光る赤の好きなる女絵師      関口 一秀
蝶生る王土一夜に亡びしか      大澤 萌衣
殺風景な小窓に今朝はぼたん雪    竹原多枝子
かたくりや桶屋の糊はごはん粒    堀場 幸子
立春や数へ年書く護摩祈祷      梅原巳代子
割烹着一日脱がず恵方巻       桑山 撫子
武士の矜恃を胸に能登の海士     加島 孝允
発電所の煙短かき湾二月       三矢らく子
涅槃西風緩き艫綱をたぐり寄せ    村重 吉香
雪囲ひ解きし生家を一巡り      荻野 杏子
夫婦椀ぬくし朝餉の蜆汁       坂口 圭吾
流氷のきしむ音きく旅枕       和田 郁江
爼を緑に染めて茹で蕨        鈴木こう子
マンリン書店書棚に並ぶ土の雛    黒野美由紀
啓蟄や二ケ月先の仮予約       梅本ちひろ
村のバス蒲公英道をみぎひだり    長表 昌代

選後余滴  加古宗也


雀の子被爆ドームの水を飲む        中井 光瞬
一九四五年八月六日、広島市に、続いて八日に長崎市に、
アメリカによって原爆が投下された。この日のことを原爆
忌あるいは原爆の日と呼んで平和祈願・核廃絶を呼びかけ
る重要な日と位置づけている。広島では、爆心地に残され
たドームを「原爆ドーム」あるいは「被爆ドーム」と呼ん
で保存、平和公園の一角に墓標のように今も立っている。
「雀の子」即ち、世代は代わっても、広島市民の平和を切
に願う心は変わっていないことを雀の子によって象徴的に
表現して心を打つ。作者が広島の人であることで、さらに
強いインパクトをもつ。
雪囲ひ解きし生家を一巡り         荻野 杏子
作者は飛騨高山に近い山村の出身。冬の間は家の周りに
板囲いをして豪雪から家を守るのが慣いのようだ。久しぶ
りに帰郷して、雪囲いの解かれたばかりの生家の周りを一
巡して、家が無事であることを確かめたのだろう。確かめ
ながら子供の頃への回想がおのずと脳裡に甦える。下の句
「一巡り」に故郷への強い思いがにじむ。
折鶴を一羽置き呉れ卒業子         重留 香苗
作者は定年後も、幼稚園の補助教諭?として働いてきた。
「園児に婆ちゃん先生と呼ばれるの」「とてもかわいいんよ」
と時どき話してくれる。その幼稚園の卒業子が折鶴を一羽、
香苗さんの前に置いて、別れを言ったのだ。香苗さんの胸
が熱くなったのはいうまでもない。
葛若葉大和八木までバスで行く       高濱 聡光
作者は三重県のはずれ尾鷲の出身。関西線を八木で乗り
換えて奈良方面に向う。作者はひょっとしたら名古屋から
八木までバスで行ったのかもしれない。路線バスに乗って
山添いの道をゆっくりと行く。窓外の風景をゆったりと楽
しむのは何年ぶりか。
畦焼の甘き煙に燻さるる          鶴田 和美
畦焼は早春の風物詩として懐かしい。畦を焼くことに
よって新芽の成長をうながし、悪虫の駆除をする。一石二
鳥の農村風景だ。この句、「甘き煙」がいい。事実、油を
燃やすのと違って、枯草で焼く匂いには、ほのかな甘さが
ある。そして「燻さるる」にひょうきんさが匂い、作者の
屈託のなさが見えて、気分を明るくしてくれる。
草餅や粗にして甘き母の味         市川 栄司
この句「粗にして甘き」とまるで上下を着た人物の物言
いのような言い回しがまず面白い。即ち、この句の素材が
「草餅」であるところがポイントで、この素材によって「粗
にして甘き」が立ちあがってくる。そして、「粗にして甘」
かった母親のことが懐かしく思い出されるのだろう。蓬の
香りが何ともうれしい一句。
残る鴨幸せだからここにゐる        堀田 朋子
鴨はいうまでもなく渡り鳥。春になれば仲間とともに北
の国へ帰る。つまり当り前のことをしない鴨にどうしてと
問いかけた一句なのだ。その答えは「幸せだから」だという。
「幸せだから」ほど強烈な答えはない。
厠にも志功の天女竜天に          鈴木 帰心
画家棟方志功は戦中戦後のしばらくを富山県砺波市に一
家で疎開していたことがある。その小さな家が、十数年前
だと思うが、棟方志功美術館の前に移築され、公開されて
いる。志功は絵が描きたいという衝動が湧くと、もう我慢
することができず、どこにでも、何にでも絵を描いてしま
う人であったらしい。砺波のこの小さな家でも例外ではな
く、壁は無論のこと、襖にも天井にも、はたまた厠から浴
場まで絵を描いてしまった。この句、厠がキャンバスになっ
てしまったところが志功の狂気ぶりをよく伝えており、排
泄よりも絵を描きたいという欲望が優先したのか、排泄が
すんだとたんに絵を描きたいという衝動が湧いたのか、い
ずれにしても志功の狂気じみた画欲がよく現れた建物とし
て興味深い。作者も、その驚きに「竜天に」という、季語
を当てた。
池に残る鴨を数へて小半時         荒川 洋子
「風雅」とはこんなことか、と思わされる一句。やたら
と忙しい現代人にとって小半時も鴨を数えて過すなど、な
かなかできることではない。言いかえれば、こういう人を
「風狂の人」というのかもしれない。即ち、洋子さんもし
たたかな俳人になられたということだろう。めでたし、め
でたし。
かたくりや桶屋の糊はごはん粒       堀場 幸子
「かたくりの花」は「堅香子」とも読んで、山間地に咲
く花だ。そして、その根は乾燥させてかたくり粉にされる。
桶屋もまた木地師同様、山間の集落で生計を立てる人が多
い。かたくりの花の咲くような山間に棲む桶屋というわけ
だ。接着剤としてご飯粒を使うことに強い懐しさをおぼえ
ている。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(三月号より)


七種や関八州の晴れ続き           工藤 弘子
関八州は関東八州。江戸の昔より、将軍のお膝元として重
要な地域とされていた武蔵、相模、上野、下野、上総、下総、
安房、常陸の八州を指します。七種は七草の粥を食べて祝う
正月七日の節句。お天道様のご機嫌もよろしい、関東一帯の
晴天続き。めでたいお節句にあっぱれなるお天気です。c
新年や赤絵画家描く白兎           三矢らく子
この赤絵画家は、西尾出身の斎藤吾朗でしょう。白兎は今
年の干支に因んで。そして赤と白は、新しい年が明けての紅
白のめでたさに。年の初めを寿ぎつつ新たな活力も感じます。
煤逃げの句座にいつもの顔そろふ       水野 幸子
煤逃げの解説に「男の滑稽と悲哀を象徴する季語」との本
もありますが、掲句は「いつもの顔」。暮の忙しさをよそに
集う俳句仲間です。後ろめたさを共有しての、一種共犯関係
にあるような。今どきのあり様をあっさりと詠んで、この俳
味。
毛兜の獣毛こはし寒の入           天野れい子
毛兜とは、動物の毛を付けた兜。信玄は外国に生息するヤ
クの白い毛を付けていたとか。防具というだけでなく、敵へ
の武威を示す兜です。死と隣り合わせの場に身を置く毛兜の
ごわごわとした堅さと、寒の入の身の引き締まるような寒さ。
清海堀は空堀枯れ葉溜めに溜め        清水みな子
以前、岡崎出身NHKの杉浦友紀アナウンサーが、岡崎城
のこの堀の底を歩きながら、その高さに驚いている場面を歴
史番組で見ました。深い空堀に堆く積もった枯葉は城の辿っ
てきた長い歴史を物語るかのようです。「カ」の音の並びや
下五がリズムを呼んで、冬の乾いたような明るさも感じます。
数へ日や出刃買ひ替ふる婆卒寿        小柳 絲子
暮も押し詰まった日、買い物の一つに出刃包丁はあるで
しょう。使い慣れた包丁では具合が悪くなっての買い替えも
あるでしょう。しかしながら句末の卒寿に驚きました。なん
と頼もしい。使う人への心遣いかもしれませんが、行く先を
見据えてのこと。新年を迎える気概もそこに感じられます。
一月の街どこまでもしんとする        川嵜 昭典
多くの物や人が行き交い、昼夜の別なく情報が飛び交う街。
強い生命力をもった「街」の抽象性が、一月の季語を得たこ
とで純化され、詩の世界がひらかれたようです。目まぐるし
く移りゆく流れの中にあって、永遠を閉じ込めた静かな一瞬。
わかりやすくて深い「どこまでもしんとする」一月の尊厳。
魚市の兄ちゃん真つ赤な毛糸帽        髙瀬あけみ
きっと威勢の良いあんちゃんでしょう。真っ赤な色は市場
でもよく目立ち、毛糸の暖かさに手編みの温かさもあるで
しょうか。朝早くから働く市場に欠かせぬ防寒の毛糸帽です。
出刃買うてきりきり青き冬至空        江川 貞代
詠み出しの刃物の強さと、きりきりという締め付けるよう
な、引き絞るような語感の強さ。それらが相まって一句全体
に緊張感をもたらしています。冬至の空の青は、冬の寒さに
澄んでいるようにも、きつく巻き上げられていくようにも。
おはやうと窓を叩く子息白し         平井  香
新しい一日の始まりが窓から直接やってきたような、朝の
挨拶の清々しさを感じます。窓を叩く子の、背の高さや弾ん
だ声、その笑顔。冷たい外の空気感とともに清浄さの息白し。
受験の日いつもどほりにやつておいで     飯島 慶子
母の言葉はやさしくて強い。不安でいっぱいの受験当日、
「いつもどほりに」は、子に寄せる母の信頼。その気負わない
言葉に安心もし、また自信をもって臨めるのだと思います。
百人一首父の声よく通り           烏野かつよ
父親の存在感とともに、読み上げる声の通りの良さに、新
年の改まった空気感まで伝わります。家族が集まるお正月な
らでは。新春のめでたさとともに家庭の明るさを思います。
句を拾はむとよこしまな初詣         堀田 朋子
思わず笑っちゃいます。あるある感でありながら、詠まれ
にくい胸の内、曝したくない本音です。敬虔な心持をもちつ
つも、一句をものしようとする、聖ながらにして俗のような。
邪と捉える客観的視点の軽さと、初詣の俳味。五七五のアンテ
ナは常に身から離れない、作者はまこと俳人なのでしょう。
みかん剥く膝に乗るのが好きな子に      池田真佐子
ちょっと手を伸ばせば届く身近な距離感が、日常の居間の
一場面の中に温かく詠まれています。手軽に剥けるみかんと、
気軽に膝に乗って来る幼子。家族というつながりのひととき。
麦屋節の三味の一打や雪しまき        鈴木 帰心
麦屋節は五箇山の民謡。哀愁を帯びた曲調に早いテンポの
踊りがつくのだとか。中七の切れの強さと風雪の激しさが響
き合って。今に伝わる麦屋節と、今も吹き荒れる雪しまき。

十七音の森を歩く   鈴木帰心


すべり台より雲梯の方が春          こしのゆみこ
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
公園にある遊具の中で季語になっているのは、「ぶらんこ
(春)」くらいだ。他に春を感じさせる遊具はないか、と作者
は公園を眺めた。
すべり台と雲梯―これらの遊具で遊ぶときの人の体の描く
軌跡を思い浮かべてみる。すべり台を滑り降りる体の描く線
は、斜め上から斜め下への直線で、渓流のようだから「夏」
を思い出させる。一方、雲梯で遊ぶ体の両腕が描くのは横一
列に並ぶ半円の連続で、ゴムまりが弾むようなリズムを感じ
る。そこに作者は「春」を見たのだろうか?
遊具に季節感を感じる作者の感性の柔らかさに感服した。
校歌吹き応援歌吹き卒業す         千々和恵美子
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
なぜ吹奏楽部に入るのか?―応援がしたいから。そんな動
機で入部した知人。彼は甲子園予選や地元のプロ野球チーム
の応援には、ラッパを持って球場に勇んで出かけていった。
吹奏楽コンクールと甲子園予選は、ほぼ同じ頃に行われる。
それでも、練習スケジュールをやりくりして、部員たちは楽
器を持って球場へと向かう。
今日は、卒業式。式場で後輩が演奏する校歌を聴きながら、
応援に明け暮れた三年間の日々を懐かしんでいるのだろう。
蝌蚪むるる水のゆるんでゐるところ      矢野 景一
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
「水のゆるんでゐるところ」の措辞に、作者の写生の眼の
確かさがある。「ゆるんでゐるところ」を心地よく感じるの
は人間も同様だ。俳句のありがたさは、「ゆるみ」の中で遊
ぶことができること。今日も句会という「ゆるんでゐるとこ
ろ」に群れて、友と俳句を楽しもう。
一匹が金魚繪卷をほどいてゆく        竹中  宏
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
絵本「スイミー」は、黒い小さな魚スイミーが、他の仲間
を集めて一匹の大きな魚の形になる話だったが、掲句は、そ
の逆の動きを描いている。金魚が群れをなして泳いでいる。
その中の一匹が群れから逸れたことで、隊列が解かれてい
く。「金魚繪卷」の措辞が実に美しい。下五の字余りが、ゆっ
たりと、優美に、「繪卷」が解かれて行く様を描いている。
灯火親し父に絵本を読み聞かせ        白濱 一羊
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
しみじみとした親子の情愛を感じる句である。幼い頃、作
者に絵本を読んでくれたお父上に、今は、作者が絵本を読み
聞かせている。介護は、昔、親にしてもらったことへの恩返
しをする時間なのかもしれない。
忘れゐし柚子を妻子の湯へ放る        村上 鞆彦
(『俳句』三月号「枯に入る」より)
冬至の日に行われた句会。終了後、句友から柚子をもらう。
お礼を言って家に持ち帰ったのだが、柚子のことを失念して
風呂に入る。風呂を出て、柚子のことを思い出し、そっと湯
船に放る。妻と子に作者はこう声をかける。
お風呂から上がったよ。
今日は冬至だよ。柚子風呂を楽しんでね。
そのあとのご家族の笑顔も笑い声も想像できてとても心が温
かくなる句だ。
面を打つ音の高さに寒の月          和田 華凛
(『俳句』三月号「月華」より)
能面師の面を打つ音が、寒の月の高さまで届くという景―
なんと格調高い句であろうか。端麗な日本画を見るようだ。
上昇する面打ちの音は、能面師の崇高な姿を眼前に描き出
す。「寒の月」の季語から、能面師の職人としての技の冴を
感じさせる。身も心も清められる句だ。
オカリナへ四温の息を吹き込みぬ       木暮陶句郎
(『俳句』三月号「上毛野」より)
晩冬のある日。今日は春を思わせるような暖かさだ。長い
冬ももうすぐ終わり、あと少しで春がやってくる。そうだ春
を呼ぼう、と思い、オカリナを手にする。
♪春よこい 早くこい
あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている…
四温の息をたっぷり吸って、ろうろうとオカリナを奏で
る。庭にやって来た猫も立ち止まリ、その音色に耳を澄ま
す─そんな、穏やかな、ほっこりとした情景が掲句から立ち
上がってくる。
文机は余生の港福は内             屋内 修一
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
「余生の港」とは言い得て妙。文机に向かい、好きな作家
の本を読む、俳句をひねる、友に手紙を書く─その至福の時
間。文机は、いわば、心の安心基地、心の止まり木。文机一
つあるだけで、老いの生活に潤いと安穏が生まれる。そんな
ささやかな生活がこれからも続いて欲しい、という思いが、
「福は内」の措辞から伝わってくる。