No.1095 令和5年7月号

井垣清明の書34

臨南京城壁磚銘(せんめい)之一

平成9年(一九九七年)六月
第32回北城書社展(上野の森美術館)

釈 文

南康府提調官通判の趙斌(ちょうひん)。
司吏の游清(ゆうせい)。
都昌縣提調官主薄の房秉正(ほうへいせい)。
司史の張伯行(ちょうはくこう)。
総甲の曹才(そうさい)。
甲首の佘仕昌(しゃししょう)。
小甲の謝賢(しゃけん)。
窯匠の鄧真(とうしん)。
造磚人夫の王福二(おうふくふく)。

流 水 抄   加古宗也


浜名方広寺
階に深く額づく解夏の雲水は
雷々雨止まば熅(いきれ)の抜けてきし
変電所に無数の碍子梅雨の雷
梅雨明くるらしじやこ天に根昆布出汁
汗冷ゆる因果応報とは何ぞ
夕涼し樺細工なら角館(か くのだて)
樺細工涼し茶筒は掌で愛づる
頬染めし志功の天女一夜酒
白雨上がれば一人馬の背巌に立つ
花栗を抜ければ小布施ミュージアム
朝市に木箱の椅子や茄子を売る
水鶏笛吹けば日没む伊賀の国
大瑠璃鳥や湯殿の山の巌熱く
黒松の亀甲模様蟬の殻
お虫干兼ね里寺の絵解き会
夕涼や紺屋に隣る塗下駄屋
木の橋を渡れば湯元河鹿鳴く
谷汲山華厳寺
芭蕉早や実を下げ西国結願寺
ハンカチの木のハンカチが風に舞ふ

真珠抄 七月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


幣立てて源流といふ滴れり        市川 栄司
みどり児の爪やはらかき聖五月      黒野美由紀
虎杖の紅き芽吹きや火山灰の山      山田 和男
七七忌あなたに柏餅たんと        池田あや美
麦秋や出荷の豚の尻を押す        髙橋 冬竹
子は蟻を母は子供を見てをりぬ      加島 照子
庭先を過ぎれば新茶もてなされ      荻野 杏子
佐保姫の「ほ」の音心なごむ音      鶴田 和美
山桜鄙に妖しき骨董屋          堀田 朋子
黄鶲や芽吹きの遅き巨樹めぐる      堀口 忠男
春泥や靴のへりぐせみな違う       桑山 撫子
久々に古書店巡る薄暑かな        荒川 洋子
ドアに手を掛けようとして天道虫     川嵜 昭典
打水の路地抜けラジオ体操へ       飯島 慶子
砕きては墨引く石工夏隣         堀場 幸子
花石榴白井の堰に嫁来る         渡邊 悦子
スマホ打つ卒寿の指や昭和の日      辻村 勅代
遠霞相馬ヶ原の演習場          新部とし子
パイプオルガン復習ふ二階の薄暑光    田口 風子
思い出すステップ朧夜のワルツ      平井  香
老鶯や石段街の猫だまり         鈴木 玲子
真空管ラジオつて何暮れかぬる      高濱 聡光
父の忌や実家(さと)の焙炉の匂ふ頃   重留 香苗
文具屋酒屋店仕舞いする昭和の日     浅野  寛
再会の従姉妹手つなぐ聖五月       田口 綾子
入浴の介護てきぱき夏に入る       石川 桂子
おぼろ夜のおぼろの夫に寄りかかり    江川 貞代
花は葉に飽きずに唄ふ昭和歌       松元 貞子
老犬に回る癖あり捩花          鈴木まり子
校風は良妻賢母昭和の日         磯貝 恵子

選後余滴  加古宗也


幣立てて源流といふ滴れり         市川 栄司
「源流」の意味を『広辞苑』は①「水の流れ出るみなもと。
水源」と説明している。確かにその通りなのだろうが、『広
辞苑』はもう一つ②「物事のおこり。起源」と解説している。
そして、多くの日本人は①の「水源」という意味に、②の
意味も重ね合わせて理解しているように思われる。日本人
の宗教観のキイワードとして「自然崇拝」があるが「幣立
てて」はまさに日本人のごく自然な自然観。宗教観が具体
的な形として現れたものだと思う。私ももうかなり前にな
るが「天孫降臨」の神話で知られた日向国の高千穂の峰に
のぼったとき、この句の通りの源流に立ったことがある。
幣が立ててある岩場。そして、その岩の間から噴き出す
澄んだ水を両手に受けて飲んだときのことを鮮明に思い出
す。「滴れり」が見事な把握。
ドアに手を掛けようとして天道虫      川嵜 昭典
「天道虫」がよかった。子供の頃から、そして、今も作
者は天道虫が大好きなのだ。天道虫は小さいゆえにいい。
天道虫はその翅に星を持っているのがいい。天道虫を掌の
中に入れ、あるいは指を這わせて、しばしば遊んだことを
思い出す。天道虫を素材として一句を詠んだとき、作者は
童心そのものなのだ。
庭先を過ぎれば新茶もてなされ       荻野 杏子
お茶は人の心を優しくしてくれる。「一服めしあがれ」
という言葉があるように、お茶の一服によって人の心はあ
たたかくつながれる。ご近所の老夫婦が縁側でお茶をいれ
ていたところを通りかかったのだろうか。新茶は香りを楽
しむもの。古茶は味を楽しむもの。新茶も古茶もおいしい
が、新茶は自分で楽しむだけでなく、友人、知人にも馳走
したくなるものだ。
スマホ打つ卒寿の指や昭和の日       辻村 勅代
作者はスマホを習い始めたのだろうか。卒寿の指をもっ
て時代に遅れまいとしているのだろうか。ふと、昭和とい
う時代を懐かしく思う作者だ。
パイプオルガン復習ふ二階の薄暑光     田口 風子
パイプオルガンは楽器の中でも最大のものだろうと思
う。一台の楽器から大きな音がひろがり、深みを奏でる。
その人を包み込むような音色は、教会とう場に最もふさわ
しい楽器だろう。今日は教会での弥撒は無い。そんな日に
パイプオルガンの復習いをしているのだ。この句、まず練
習ではなく「復習い」がいい。そこに宗教と真摯に向き合っ
ている奏者の姿を見ることができる。そして、「薄暑光」
に心の屈折を投影している。
おぼろ夜のおぼろの夫に寄りかかり     江川 貞代
「おぼろの夫」に作者のいまのありようが素直に見て取
れる。「おぼろの夜」「おぼろの夫」といいながら、虚と実
の間を行ったり来たりしてしまうのだろう。「寄りかかり」
がせつない。
子は蟻を母は子供を見てをりぬ       加島 照子
母と子、それぞれ関心を向けるところが違うことを、い
ささかのユーモアをからめながら描写したのがいい。そし
て、作者の側からは、同じ方向で、見事にシャッターを押
している。つまり、とことん冷静に眼前の親子をとらえて
いる。かといって冷たいのではなく、暖かく親子を包み込
んでいる。
打水の路地抜けラジオ体操へ        飯島 慶子
路地の一日は打水から始まる。次にこぞって広場で行な
われるラジオ体操へ向かうのだ。そこには、健全なコミュ
ニティがある。そして、その町のじつに健全にして健康な
リーダーの一人が作者であることが見えてくる。うれしい
一句だ。
思い出すステツプ朧夜のワルツ       平井  香
ワルツを聞きながら、社交ダンスのあのステップが思い
出されたというのだ。ワルツは四分の三拍子。その軽やか
なリズムはおのずと心を解放し、作者を青春へ引き戻すの
だ。こんな時間をいま持てたことの幸せを想わずにはいら
れない香さんだ。
父の忌や実 家(さと)の焙炉の匂ふ頃    重留 香苗
香苗さんは京都宇治の茶栽培農家、そして、製茶を生業
とする家に生まれたと聞いたことがある。宇治といえば、
その昔から高級茶の生産される土地として全国に知られて
いる。新茶の摘み採り作業につづいて、いよいよ製茶の工
程の中心となる焙炉が動き出す頃に父親を亡くされたの
だ。「焙炉」の香りは即ち、新茶の香りで、新茶の香りが
してくると大好きだったお父さんの亡くなった日が思い出
されるのだろう。
若竹発行地、西尾も茶どころ。焙炉の稼働も六月いっぱ
いにはほぼ終る。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(五月号より)


春泥にまみれし獣医牛小屋へ         中井 光瞬
呼ばれて駆けつけたのでしょう、牛小屋へ入る獣医の足元
が臨場感をもって伝わります。そこは生き死にに関わる場、
また褥医としての産につながる場のような感じもします。雪
解けの地面のぬかるみと、生き物の腑をめぐる血、そのぬめ
り。春まだ浅い、万物の命の萌芽を呼ぶ、ぬくみをもつ大地。
野の果てに浮かぶ双塔青き踏む        市川 栄司
春の飛鳥路を散策されての作。この双塔は、実際に見えて
いたのかもしれませんが、前半の措辞からシンボリックな存
在のようにも思います。二大巨頭のような、或いは切磋琢磨
の象徴のような、東西に並び立つ塔。遠くを見やる視座の確
かさと、そこから青草を踏んで行く足取りに込められた、清
新なる気概。春の野山の瑞々しさが立ち上ってくるようです。
菜の花や海ひたすらに光もつ         髙橋 冬竹
いせの海見えて菜の花平らかな 鬼城〉を踏まえての一
句でしょうか。切れのある上五から、菜の花のまぶしいよう
な黄色が一面に広がります。その上五と同量の眩しさを放つ
陽の光に照らされた海面。鬼城の句が穏やかな春の光景を描
いているのに対し、掲句では春のきらきらした光の競演を描
いているように思いました。
芽柳やポケモン水辺好むらし         平井  香
以前、鶴舞公園の噴水塔付近に、スマホを片手にした異様
な人だかりがあり、聞いてみると、その辺りにポケモンが出
現するとのこと。ポケモンは世界に共通の愛されキャラ。そ
のゲームに興ずる人々も、世代や人種を越えています。早春
の風に柳の枝も新芽も、水面も明るくゆれているようです。
梅林の抱きし池の細波            池田真佐子
佐布里(そうり)池梅林は、知多の名所の一つ。池周辺に
は約六千本の梅が、二月半ば頃から咲き続けます。梅林が囲
む池全体の大きな景から、焦点化されてゆく池の水面。春の
やさしい風が池に細(ささら)波を立たせ、そのさまはちら
ほらと咲く梅の小さな花弁と響き合い、梅の香も運んで…。
食べかけのカステラ春薄暮の書斎       大澤 萌衣
定型を外れた十八音から伝わるのは、春の暮れかかった、
ややアンニュイな気分。九音、九音の対句表現として受けと
めれば、「はるはくぼ」のハ音の畳みかけが効いてきます。五
音六音七音として捉えると、「春」が上のほの甘いカステラと、
下の場所と時間帯とをつなげているようにも思えてきます。
さらに「春」の次に休符の一音を入れ、五七七の音数として
読んでも、また面白い。食べるという行為の途中の一瞬、時
が止まってしまった静止画の一句に、永遠を見るようです。
あやとりの糸の三寒四温かな         桑山 撫子
一人でもあやとりは楽しめますが、掲句は二人あやとりで
しょうか。相手の手から自分の手へ、交代するたびに変化す
る形。それが一本の糸から作られるのは楽しいもの。寒暖を
交互に繰り返す日々、あやとりの手指に感じる春の気配。
渥美知多真一文字に大霞           深見ゆき子
三河湾をはさむ渥美半島と知多半島は、よく「蟹のつめ」
といわれます。その両島が一の字のように繋がっているよう
に見えたのでしょう。それは大霞ならではの風景。茫洋とし
た春の大景を堂々と詠んで、断定する気持ち良さも感じます。
石垣は船着場跡風光る            山田 和男
石垣というものにあるかつての名残。それは日本全国、海
には海の、山には山の、その土地に生きた人々によって積ま
れた暮らしの証。今はもうそこに海の眩しさはありませんが、
春の陽が溢れ優しい風が吹く、今も明るい場所なのでしょう。
三月十一日あの日炬燵にゐて揺れし      乙部 妙子
詠み出しの十音はどうしても外せない音数。作者のみなら
ず、私達にとっても忘れられない日です。この日から原発事
故等、一連の惨事が始まりました。時を経ても残る記憶。あ
の日炬燵に居て揺れた実感は、作者にとって確かなもの。そ
れは当事者でなくとも、この国に生きる関係者として、いた
みを伴う記憶であるように思います。
攻勢防禦九条棚上養花天           村上いちみ
画数の多い漢字が並ぶ中で目立つのは、二画の「九」。戦
争放棄、平和主義を規定した憲法九条ですが、様々な立場で
解釈され、ときには激論も呼びます。難しいことはわかりま
せんが、平和な世界を希求するのは古今東西共通の願い。う
すぼんやりとした雲がひろがる養花天の空の下、くぐもりが
ちではあっても、平和を願う声は永久に続いています。
啓蟄や鍬のくさびを叩き込む         村重 吉香
啓蟄は三月五日頃。春暖の候、堅くなった土を耕す道具の
点検から農仕事が始まります。要のくさびを打ち込む強さ
は、これからの仕事への備え。「啓蟄」という地中から虫が
外へ出る時候と、「叩き込む」という内側へ向かう強い行為。
上五と下五のベクトルの違い、そのギャップが新鮮です。

十七音の森を歩く   鈴木帰心


春盛り熊除け鈴のなるリュック        半田かほる
(「俳壇」五月号 「亀万年」より)
昨年、五箇山(富山県南砺市)を訪れた時、下校時の小学
生の一団に出会った。彼らが目の前を通り過ぎる時、何やら
澄んだ音がした。地元の方に、「あの音は何ですか?」と尋
ねると、「ああ、あれは子ども達のランドセルについている
熊除けの鈴の音ですよ」とその方は答えた。
今春、春祭りを見に、五箇山を再訪した。その翌朝、宿の
近くの山を散策した。まさに「春盛り」の季節だった。散策
から帰って、宿の主人に「山を歩いてきた」、と伝えると、
「熊が時々出ますよ」と言われた。
五箇山の方々と比べて、自分の自然への向き合い方はあま
りにも甘く、無防備であったことを思い知った。
なお、五箇山にはジビエの名店がある。この店の熊鍋と締
めの熊雑炊は絶品だ。
老鶯の山より晴れてきたりけり        笹瀬 節子
(「俳壇」五月号 「マインの流れ」より)
早朝、五箇山の集落を散策した。その時、まさに掲句のよ
うな景を見た。庄川対岸の山々は朝靄に姿を隠したままだ。
庄川の流れる音を聞きながら坂道を上がっていくと、夏鶯の
声がする。耕されたばかりの畑の土の色が美しい。
山は舞台、靄は幕、鶯は劇の開幕を告げる演奏者のよう。
鶯の朗々とした声に呼応するかのように、朝靄が次第に消え
てゆき、山々が姿を現す。ブナと杉の林が美しい。
掲句のような景に出会うと身も心も晴れやかになる。
大方は老人力や村祭             桑田 和子
(「俳句界」五月号 「自選30句」より)
五箇山の春祭りを見に行った。祭りの初日は、来客を振る
舞う本祭り、翌日は、集落の住民・親戚縁者が集う裏祭りで
ある。祭りには獅子舞が出る。むかで獅子とシシドリ(獅子
あやし)の少年が激しく踊る。
春祭りを取り仕切るのは集落の青年団である。しかし、県
外への移住が年々増加し、青年団だけで祭りを運営すること
が困難になってきた。そこで、「元青年団」が祭りをしっか
りと支える。老人会の法被を着て、青年団と一緒に集落の一
軒ずつを回っていく。家々で酒が振る舞われ、元青年団たち
は、次第に上機嫌になり、果ては、その中の一人がシシドリ
の少年から、シシトリボウを借りて、獅子と共に踊りだす。
足はもつれ、踊りもいささか覚束無いが、それを見ている人
たちからは、大きな笑い声と拍手が起こる。笑いと涙がない
まぜになった何とも言えぬ感情が渦巻く。
あの夜、筆者は五箇山の集落の「老人力」の頼もしさを垣
間見た。作者も同じような頼もしさを村祭の年配者から感じ
られたのではないだろうか。
卒業や人の数だけ椅子残り          佐藤 博美
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
これまであったものが、無くなる、しかもその無くなった
物の痕跡が残っていると、その喪失感は一層つのる。例え
ば、歯が抜けた時、その歯のあった位置にはぽっかり穴が空
く。口の中に不慣れな空間が生まれ、舌先がその空間をうろ
うろとさまよう。
掲句は、卒業式を終えた体育館の景を詠んでいる。卒業生
と、彼らを送り出した教師、保護者が座っていた椅子が、そ
の人数分だけ残っている。筆者は、その卒業生と共に笑い合
い、励ましあってきた教員の一人なのかも知れない。卒業生
との三年間の日々が甦る。一人一人の顔が浮かぶ。だが、も
う彼らはこの学舎を巣立って行くのだ。その一抹の寂しさ
が、「人の数だけ」の措辞から伝わってくる。
パンと水買ひ炎帝に従ひぬ          福井 隆子
(「俳壇」五月号 「空想季語に遊ぶ」より)
暑さは体力、気力を奪う。買い物に行くのも大儀だ。で
も、何か食べるものを買わなければ、と近くの店まで歩いて
行く。正直なところあまり食欲もない、バッグを一杯にして
持ち帰るのも辛い。とにかく最低限の飲み物と食べ物を買っ
て、早く家に帰ろう―そんな作者の心の声が掲句から聞こ
えてくる。
この暑さに立ち向かうのは得策ではない。今は、炎帝に従
うしかない―「帝」の文字から、王に服従する「民」のた
め息も聞こえてくる。
生き方に型紙のなし冬銀河          大島 雄作
(『俳句年鑑 二〇二三年版』より)
冬の南の空には、オリオン座、おおいぬ座、こいぬ座が輝
き、それらの一等星を結んだ正三角形は「冬の大三角」と呼
ばれている。現在一般的に用いられている星座は、古代メソ
ポタミア地方の人々が作ったものだ。一方、中国の黄河流域
の人々も独自の星座を作った。
「冬銀河」(冬空の天の川)は、夏の夜空ほど明るい流れで
はなく、観察するのはなかなかむずかしい。ということは、
それだけ自身の想像力を発揮して、自分独自の「星座」を作
り出すことが可能だということだ。
誰も「型紙」を持ってこの世に生まれてくるわけではな
い。自分自身で型紙を作り、自分自身の人生の「星座」を生
み出していけばいいのだ。