No.1096 令和5年8月号

井垣清明の書35

周防内侍(すおうのないし) の歌

平成9年(一九九七年)十一月
板橋区書家作品展(板橋区立美術館)

釈 文

春乃欲能(はるのよの)
伊米婆可里奈留(ゆめばかりなる)
多麻久良爾(たまくらに)
代奈久多 武(かいなくたたむ)
名許曽乎思家禮(なこそおしけれ)

流 水 抄   加古宗也


鹿の鳴く声にふと覚め奥吉野
鹿の肉焙つてくれし吉野茶屋
かまどうま跳んで湯鞘の格子窓
かまきりや閂を差す農具小屋
ゆつくりと爪切る秋の灯を下げて
点て出しの菓子は金平糖秋さやか
寺町の横は花街桃吹ける
寺町の裏も花街ちちろの夜
晴天や鎌もてあぐる南瓜蔓
白マスク掛けて厄日をやりすごす
紅萩や藤岡郷に産湯井戸
畏友・平野雷太郎君より
熊野より錆鮎どつと届きけり
めひかりの煮付山盛り月の宴
コスモスを花束にして誕生日
砂埃あぐる洲畑や秋渇き
穴窯の焚口に護符昼の虫
強振の果ての凡打やばつた飛ぶ
千曲川大曲りして芋を掘る
水澄むや渓に仕掛けし鯉生簀

真珠抄八月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


手話の「き」はきつねのかたち梅雨満月   田口 風子
茶を摘むや小気味よき音聞きながら     岡田つばな
夕薄暑いま夫らしき気配して        江川 貞代
巨木載せトラック向かふ先に夏       竹原多枝子
小判草増えてこの町住みやすし       池田真佐子
トランクに夏の匂ひの残りをり       飯島 慶子
瑠璃鳴くや覚満淵をふるはせて       堀口 忠男
墓地選ぶ親子に笑ひ梅雨晴間        山科 和子
手術衣の医師の談笑涼しくて        堀田 朋子
仏壇に秘密めく文梅雨ぐもり        長村 道子
空乾きながら大麦熟れてゆく        田口 茉於
誰が植ゑし街路樹の枇杷たわわなる     髙𣘺 まり子
髪を切るだけの粧ひ聖五月         水野 幸子
白南風や佛足石の大足裏          平井  香
靴音に声に色鯉寄り来たる         今泉かの子
夏燕三角ベース駆け抜けて         高濱 聡光
庭畑に二人暮しの豆を蒔く         岡田 季男
茅花流し大須の路地に洗濯機        堀場 幸子
捨てきれぬビート板ふく夏はじめ      磯村 通子
青嵐下馬将軍の威光ふと          新部とし子
畦道に藺の香があれば備後かな       渡邊たけし
夏休み学生街の定食屋           鈴木 恭美
うどん打ちの道具も遺品麦熟るる      荻野 杏子
姿勢よく歩く人あり青葉中         岩田かつら
鉢物を置き替えてみるみどりの日      桑山 撫子
誕生日なれば薔薇足すけふの供花      池田あや美
磁石もて踊る砂鉄や夏めける        工藤 弘子
夏の風通る駅舎のレストラン        石川 桂子
今朝の夏いよよ傘寿の髭を剃る       関口 一秀
日時計の針洗はるる菜種梅雨        加島 照子

選後余滴  加古宗也


夕薄暑いま夫らしき気配して        江川 貞代
貞代さんは数か月前に最愛の夫を亡くされた。夫らしき
気配を感じるたびにはっとする貞代さんだ。亡くなったこ
とが信じられない、信じたくない。そして、夫の死を受け
入れるべく努力を繰り返す日々なのだろう。「夕薄暑」に
心の動揺が凝縮されている。
夏燕三角ベース駆け抜けて         高濱 聴光
野球もソフトボールも、通常の形はダイヤモンド型の四
角だが、草野球や少年野球、ソフトではメンバー九人が揃
えられないときなど、三角ベースで少人数で楽しんだもの
だ。少年たちにとっては、三角ベースの方がかえって面白
かったりする。少年の駆け抜ける姿が、夏燕に似て、あざ
やかで美しいのに喝采を送ったのだろう。
磁石もて踊る砂鉄や夏めける        工藤 弘子
砂鉄が棒のようにつらなり、踊るような動きを見せるの
はじつに不思議で、心がときめいたものだ。そして、ピタッ
と鉄を引き寄せる磁石の不思議にしばし時を忘れたことが
懐かしい。俳句の重要な詩心の一つが、童心に返ることだ
と初心時代に教えられたが、「俳諧は三尺の童子にさせよ」
という芭蕉の教えも、スマホの時代になって、あらためて、
厳しい教えとして心にひびく。
手話の「き」はきつねのかたち梅雨満月   田口 風子
目の見えない人には点字が、耳が聞こえない人には手話
が考案されて、それぞれの共通語として定着してきている。
わが師・富田潮児は十八歳になる少し前から失明になり、
七十代に入ると聴覚が悪くなった。視覚は一級の身体障害
者、耳は二級障害者だったが、生涯、愚痴めいたことは一
切言ったことがなかった。その様子を見て、私は勝手に、
こういう人を「生身魂」というのだと思った。掲出句はそ
うした障害者の様子を、明るく描き切っているところがい
い。満月の中で餅をつく兎。その満月にかかった「梅雨」
という季語が、生き抜くことの大切さを教えてくれている。
誕生日なれば薔薇足すけふの供華      池田あや美
作者も数か月前に夫を亡くしている。あや美さんの夫と
はたびたびお会いする機会があったが、とても魅力的な人
だった。即ち、とても優しい人だったし、暖かい人で、そ
れでいて、男らしい力を感じさせる好人物だった。加藤登
紀子の「百万本の薔薇」を持ち出すまでもなく、愛そのも
のを象徴するような花だ。「誕生日なれば薔薇足す」と熱
い思いを告白。それが「供花」であることがせつない。
手術衣の医師の談笑涼しくて        堀田 朋子
手術衣のままに、医師が休息をとっているのだ。「談笑」
とあるから、即ち手術が成功したことが見て取れる。この
一句は、医師の力量だけでなく、人柄まで明確に読み取れ
る句だ。そして「涼しくて」で、見事な完結を見せている。
靴音に声に色鯉寄り来たる         今泉かの子
「条件反射」という言葉がある。あるいは「学習」とい
う言葉がある。色鯉は靴音に、声に、餌がもらえると思っ
て近寄ってくるのだ。しばしばそれは空振りに終わるのだ
が、にもかかわらず寄ってくるのは、餌が欲しいからにほ
かならない。「五欲」という言葉があるが、動物に最も強
い欲は「食欲」といえるだろうと思う。食欲即ち、動物に
は本能の中の本能、生命を守り延ばすということがあり、
そこを哀しく表現している。
誰か植ゑし街路樹の枇杷たわわなる     髙𣘺まり子
林檎・蜜柑・榠樝など果樹を街路樹とする街道筋をとこ
ろどころ見かける。この果樹を見るとそこが果樹の産地と
知れるというだけではなく、なんとなくほのぼのとした気
分になるのがうれしい。余談だが、一と昔ほど前、鹿児島
へ吟行したとき桜島を訪れた。ちょうど桜島が枇杷の出荷
時期で、その大きく甘い実に驚いたことが、枇杷の季節に
なると懐かしく思い出される。「たわわなる」という措辞が、
視覚・嗅覚ともに満足させる表現になっている。
夏の風通る駅舎のレストラン        石川 桂子
ローカル駅のがらんとしたたたずまいが過不足なく表現
されている。うどん屋ではなくレストランであることも、
その地方の最高の食材が提供されていることが、見えてき
てうれしい。広い空間に外からの自然の涼風が入ってくる
ことがただちに了解されて、心地よさを増幅させている。
青嵐下馬将軍の威光ふと          新部とし子
江戸城内を馬を降りずに自在に行き来できた、ときの大
老・酒井雅楽頭忠清を俗称・下馬将軍という。過日、山紫
会の吟行会で酒井家・累代の墓所を訪ねた。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(六月号より)


風に散る風なくて散る桜かな         服部くらら
無常というもの。風があっても無くても、桜はいつか散
り、それはまた、桜でなくても生きとし生けるもの皆同じで
す。「風」と「散る」。繰り返すリズムに、今、目の前を桜の
花びらが舞い散り、大地へ還ろうとするかのような美しい光
景が浮かびます。静かな詠嘆「桜かな」に込められた万感の
思い。
歩き初む児の尻餅や相撲花          平井  香
相撲花とは、すみれのこと。花の後ろの部分を互いにひっ
かけて引き合う、遊びからの命名だそうです。おさな児の不
安定な足取りと尻餅という安定の着地。歩き初めたばかりの
期間限定にある、危なっかしさの足元に、そしてトンとつい
たお尻の辺りに、相撲花がやさしく揺れています。
一の蝶二の蝶三の蝶の径           水野 幸子
春の弾むようなたのしさが、一番目、二番目、三番目、と
現れる蝶に象徴されています。ふと足を止めると、ここにも
あそこにも、或いは道すがらの順に次々と。この径は、さな
がら春という季節が時の流れとともに進む道。これから、蝶
に代表される、さまざまな春の恵、春の命に出あっていくの
でしょう。多くを云わず多くを語る、シンプルかつ口誦性の
高い、俳句ならではの作品と思いました。
仮面ライダーの武器持って来る梅祭      小柳 絲子
これはもう無敵です。勇者は最強の武器を携え、他の花に
さきがけて咲く梅の里へ、勇躍はせ参じられました。おさな
児の手にしていた物だけに焦点をあてた、この切り取り方の
たのしいこと。勇者を取り巻く従者(大人)たちの笑顔や談
笑風景、うららかな陽気まで伝わってくるようです。
山笑う食べ放題の肉食べに          髙瀬あけみ
下五の「肉食べに」のありのままの率直さが、現代仮名遣
いの季語「山笑う」と絶妙に呼応しています。しかも、食べ
放題なら存分に。はつらつとした健康的な様子と、春の山の
明るさと。
あないびとの訛親しく山笑ふ         鈴木 帰心
三河弁なら「そうじゃん、そうだら、そうしりん」の、じゃ
んだらりんが近しいところ。案内人のふとした言葉遣いに、
親近感、郷愁を感じたのでしょう。全国各地にある、その土
地ならではのお国訛。山国日本の風土がもつ、地方色の豊か
さを背景に、多くの共感を呼ぶ「山笑ふ」が効いています。
春塵やブリタニカにある革の縒れ       天野れい子
「ブリタニカ」にある昭和の匂い。大きな百科事典の重厚
感は、かつてステイタスの一つでした。立派に装丁された皮
の縒れが、華やかかりし頃の時代を物語っているようで、万
物流転の一節「祇園精舎の鐘の声…塵に同じ」と響き合って。
司書室に泣きにくる人ヒヤシンス       山科 和子
司書室というこぢんまりとしたスペースと、出入りするの
は限られた人だけという空間。そこは、泣きたい思いを抱え
た人にとって、話を聞いてくれる人がいる心許せる場です。
不満や愚痴というより「泣きにくる」の措辞が、その後の案
外すっきりする心模様を感じさせます。窓辺に置かれた水栽
培のヒヤシンスは、冷たい水から花を咲かせます。今、痛手
を受けてこぼれた涙が、いつか笑顔の元になりますように。
啓蟄の服コーヒーの染み一つ         川嵜 昭典
コーヒーの一滴が、今着ている服にポツッと落ちた、それ
がちょうど啓蟄の時分。特に意味付けをすれば、虫が出てく
る地面の色と、服に現れたコーヒーの染みとの茶色つながり
でしょうか。でもそんな解釈を超えて、不思議におもしろい。
読止の中也春の夜宙ぶらりん         坂口 圭吾
この「春の夜」は中原中也の詩であり、作者自身が体感し
ている春の夜なのでしょう。詩中に出てくる、窓枠の中の一
枝の桃色の花と、窓の中の絹衣は多分に妖艶さをはらんでい
ます。読み止しのままの難解な詩と宙ぶらりんの不安定さ
が、春の夜のどこか幻想的な世界を表しているようです。
江戸へ酢を遠州灘の春怒涛          加島 孝允
尾州廻船の往時を思わせる「遠州灘の春怒涛」。江戸の食
文化、江戸前寿司に大きく貢献し、その流通を担った廻船
業。勢いのある上五の詠みぶりは、下五の春の荒れ狂う波の
激しさとせめぎ合うかのよう。血気盛ん、溢れる気力。
強く賢く美しくあれ雀の子         岡本たんぽぽ
「美しくあれ」に作者の望む姿、願いが込められているよう
です。普段よく見かける雀の子は、市井に生きる一般庶民の
象徴のよう。齢を重ねてもこうありたいと共感いたします。
任される春筍を配る役            石川とわこ
張り切ってお役を果たそうとする気持ちと、筍の掘りたて
のやわらかさ、生き生きとした旬の感じが呼応しているよう
で、気持ちの良い作品です。筍は時間が経つほどえぐみが出
ます。交友の広さと動ける手足、周りの信頼はまさに宝物。

一句一会     川嵜昭典


波音に耳聡くして鹿の子かな         白岩 敏秀
(『俳壇』六月号「袋掛」より)
波が揺れるようすと、その音に鹿の子が耳をぴくりと動か
すようすに加えて、海から吹く爽やかな風までも感じられる
ようだ。海という、人にとっても動物にとっても大きく、ま
た未知だと感じられるものに警戒心を抱くのは、人間の子供
にも共通するようで、幼い頃に始めて海を見たときの驚きを
思い出させる。
にんげんを通して梅雨のど真ん中       井上 論天
(『俳壇』六月号「沖縄忌」より)
梅雨のさ中でも、人それぞれの仕事を背負いながら街中を
行き交っている。梅雨なればこそ、そこには若干の苛立ちや
不機嫌さのようなものも渦巻いているだろう。作者の視点は
というと「にんげんを通して」と、あえて人間をひらがなで
書くことにより、梅雨のさ中の、そのような人間の在りよう
から一歩引いているような、平たい立場で眺めている。しか
し、批判という訳でもない。人間が人間の行動を見つめ、考
える。これ以上に人間がどのように生きていくべきか、また
どのように進むべきかを考える方法はない。俳人ならではの
視点、表現方法でもあると思う。
月おぼろ漢方薬に気の処方          大川ゆかり
(『俳壇』六月号「気の処方」より)
通っている漢方薬局の店長曰く、漢方というのは体の気の
巡りをとても大切にしているのだそうだ。気というのは、エ
ネルギーのようなもので、これが滞ると、だるさやイライラ
など、調子が悪くなるそう。掲句の「気の処方」もそのよう
なものだろうが、俳句の表現として昇華されているのが面白
いと思う。月が、大昔に惑星が地球に衝突した後の破片によ
りできたのだとすれば、月は地球の片割れみたいなものであ
り、飛躍すれば、地球の破片でできている人間の兄弟みたい
なものでもある。その月が、朧月となり霞んでくると、こち
らも調子が悪くなる、という取り合わせに俳味があり、なぜ
か少し幸せな気持ちにもなる。
苗売の蹴つまづきたる一斗缶         常原  拓
(『俳壇』六月号「一斗缶」より)
苗売り、苗市が清々しく感じるのは、初夏の空とそこに吹
く風を連想させるからだ。これからどんな植物を育てようか
と、わくわくしながら並んでいる苗を選る。売り手に分から
ないことを質問しながら、何か月か先の植物の姿を想像す
る。そんな折に響く、躓いた大きな音は、その場の光景と余
りにもミスマッチで、笑っていいような気の毒のような、複
雑な気持ちになる。それでも俳句にしてみるとその光景は、
かなり滑稽で、一方で初夏の人々の心の昂りも感じられ、面
白い。
がん病棟までの近道初桜           新海あぐり
(『俳句四季』六月号「佐久との往還生活」より)
上五中七の「がん病棟までの近道」と下五の「初桜」との
間には、ちょっとした間のようなものがある。近道に入ると
き、そこには病棟に行く、少し重い影を伴った、坦々とした
道があるだけである。しかし、そこに初桜を発見した。初桜
という季語は、今年最初の一輪、二輪の花であるが、同時に、
それを発見した喜びも含まれている。その道を抜けたとき、
その一輪、二輪分だけ、ふっと心が軽くなった。それは今日、
坦々とした道ではなく、特別な道となった。ささやかではあ
るが、このささやかさにどれほど救われるか、と毎日を生き
ているとそう思う。
花の闇なれば深みに嵌まりもす        奥名 春江
(『俳句四季』六月号「桃さくら」より)
ふっと、桜の持つ魔力のようなものに引き寄せられてしま
うと感じるときがある。ことに近くに人のいない桜に対峙し
たとき、桜はその力を開放するかのように人を誘う。全てが
明快に、先が読めるようになっていく人間の進歩の中で、桜
を含めた植物たちは、まだその魔力を維持しているかのよう
だ。そうしてその植物からの魔力を敏感に感じられる人間で
ありたいと、つくづく思う。
啓蟄や地球のどこか欠けている        董  振華
(『俳句四季』六月号「詩と遠方」より)
啓蟄は「蟄虫啓戸」で、読み下せば「すごもりのむし、と
をひらく」となる。宇宙から地球を眺めてみると、この開い
た戸の分だけ地球がぽこぽこと欠けている、という句だが、
虫たちの息遣いと同時に、地球の息遣いも感じられてくるよ
うだ。大きく詠んでいるようで、細かな視点が感じられ、面
白い句。
はまなすや風は一日砂を研ぎ         三原 白鴉
(『俳句四季』六月号「若き日の」より)
風が一日砂を研いでいることを知っているということは、
作者もそこで一日風を感じていたということだ。一方で風に
も研がれない浜茄子の強さをじっと見つめていたのだろう。