No.1097 令和5年9月号

井垣清明の書36

樵子の語、棹郎の謳

平成10年(一九九八年)五月
第27回日書学同人展(銀座・松坂屋)

釈 文

樵子(きこ り)の語(こゑ)、
棹郎(せんどう)の謳(うた)。
(白居易「重修香山寺」詩
「静聞樵子語、遠聽棹郎謳」より)

流 水 抄   加古宗也


土屋文明記念館にて山紫会
円墳の心に棺あり昼の虫
道端に葭簀小屋立ち冬瓜売る
メタセコイヤ聳えたつ街稲つるび
ナゴヤコーチン串刺しにしてかぼす汁
閻魔堂守る赤鬼いぼむしり
秋燕は汀を好み伊良湖岬
水澄むや鱘魚(ち ょうざめ)育つ溪生簀
鐘楼に梯子かけあり萩の風
磁石場の固く鎖されて盗人萩
秋声や琵琶湖疎水の取水口
彼岸花咲き満ち牛の爪切場
高崎・龍廣寺
寝墓みな俘虜のものとや曼珠沙華
烏川
真ん中に聖石坐し秋の川
横笛の音のかすれて秋渇き
長き夜の灯にかざしみる奉書紙
蟷螂の交尾みつ夫の首を噛む
かまきりの音たて肩にとまりけり
蟷螂や乳鋲門閉す藩祖廟
蟷螂や女人門址に忘れ数珠

真珠抄九月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


ぎしぎしや一合毎の標示板      山田 和男
首筋にハンカチあてて語り出す    今泉かの子
読書会延期決めたる酷暑かな     荒川 洋子
一人来て雨の茅の輪を潜りけり    田口 風子
打水や間口二間の映画館       天野れい子
南座は灯を落す頃川床仕舞      市川 栄司
防空壕ありし辺りの螢かな      工藤 弘子
てのひらに朝まで残る螢の香     堀田 朋子
筒鳥の胸打つ声や尾根伝ふ      堀口 忠男
空蟬をいくつも付けて被爆の木    中井 光瞬
捨てきれぬ本を読み上げ桜桃忌    水野 幸子
螢火の明滅闇を深めけり       笹澤はるな
夏うれし硬券切符に鋏痕       池田真佐子
夜の艶は雨の向かうに盆の家     大澤 萌衣
梅雨晴や絵伝に太子出産図      三矢らく子
論争に肩書要らず金魚玉       高濱 聡光
ベランダに新聞ひろげ米の虫     磯村 通子
日雷睨む三方真向き猫        平井  香
夏ぐれの浜に置かれし毒消し酢    梅原巳代子
役に立つとも思えずに竹夫人     斉藤 浩美
駆け出すもすぐに驟雨の只中に    竹原多枝子
補聴器もすでに身の内昼寝する    松元 貞子
けふの茄子ひと風呂浴びし夫に焼く  堀場 幸子
釘打って瓦止めとす梅雨晴間     川端 庸子
梅雨の扉やびらに笑顔のたづね人   髙𣘺 まり子
梅雨晴や誰も拾わぬ一円玉      川嵜 昭典
夏の日や今日は夫の散髪日      岩瀬うえの
口角を上げる練習南風吹く      岡田真由美
流鏑馬の射手の高さに抱く赤子    梅本ちひろ
春に夫夏におとうと沙羅の花     池田あや美

選後余滴  加古宗也


梅雨晴や絵伝に太子出産図         三矢らく子
愛知県安城市には真宗三河三ヶ寺の一つ野寺本證寺があ
る。徳川家康は三河岡崎城主の子として生まれ、小藩ゆえ
に、戦国の世をすさまじいばかりの苦難の中で生き抜き、
天下を取った人物だ。現在、NHK大河ドラマ「どうする
家康」が大人気。三河はいささかフィーバー気味だ。そん
な天下人、家康には「三大危機」と呼ばれる危機があった。
一つは「三方ヶ原の戦い」もう一つが「伊賀越え」。三つ
目が「三河一向一揆」だ。三河一向一揆の中核をなす寺が
この俳句の舞台である本證寺ということだが、この本證寺
はいまも城郭造りが色濃くのこっている。そして、寺宝も
多い。毎年、土用の頃に虫干しが行なわれ、一般の参観も
許されている。その中には絵伝と呼ばれるものがあり、聖
徳太子絵伝、親鸞上人絵伝、蓮如上人絵伝などがある。こ
の句の「太子出産図」は、聖徳太子絵伝の中の一駒だろう。
真宗寺院は聖徳太子信仰が宗派の教義の中心をなしてお
り、聖徳太子の童子像を祀る寺院も多い。「梅雨晴」とい
う季語を受けて、太子出産図を目を細めて見入っている作
者の姿が見えてきて微笑ましい。
一人来て雨の茅の輪を潜りけり       田口 風子
「茅の輪」とは茅萱を束ねて大きな輪をつくって、社殿
の前などに立てるもので、参詣者たちがそれを潜って、無
病息災、厄除けの祈願をする。私の住む西尾市でも、氏神
の総社とされている伊文神社に茅の輪が立ち、六月三十日、
宮司を先頭に茅の輪を8の字を描いて潜る神事が行なわれ
る。これまでに見た茅の輪では、那智大社、そして奈良県
東吉野村にある丹生川上神社のそれは立派だ。さて、上掲
の一句、「一人来て」がいい。しかも、雨の日の茅の輪潜
りにまっすぐな真摯な心が見て取れて美しい。
防空壕ありし辺りの螢かな         工藤 弘子
この句を読んだとき、ふと野坂昭如の小説「ほたるの墓」
が思い出された。というよりも、ジブリ映画の同名のアニ
メーションが思い出された。戦争で、親を亡くした兄妹が、
防空壕で必死に生きようとする話しだが、ついに妹は栄養
失調、というよりも餓死してしまう。
「防空壕ありし辺り」とは現在は無い、ということだが、
「辺り」で螢を見つけたとき、防空壕の姿がまざまざと思
い出されたというのだろう。私の叔父が、子供たちに竹と
んぼをつくってくれながら「戦争はいかんよ。戦争はいか
んよ」と繰り返し言っていたことが甦ってくる。
駆け出すもすぐに驟雨の只中に       竹原多枝子
驟雨というものの本意が、具体的に活写されていて過不
足がない。「ああ、濡れちゃった」という作者の溜息が聞
こえてくる。そして、「只中に」によって、ずぶ濡れの作
者の姿が見える。
春に夫夏におとうと沙羅の花        池田あや美
作者は春に夫を、夏に弟さんを亡くされた。わずか半年
もたたないうちに二人の身内を亡くされたことのショック
は大きい。直ちには現実を受け入れがたいものだ。「沙羅の
花」という季語の斡旋によって、亡くなられた二人の人柄
がおのずと偲ばれて、思わず瞼を閉じてしまう一句だ。「沙
羅」は「夏椿」とも呼ばれ、その純白の椿に似た姿が美しい。
螢火の明滅闇を深めけり          笹澤はるな
螢火の明滅は闇をいよいよ深くし、ロマンをかきたてる。
闇というものは明りがあることで深まることを作者はあら
ためて心に刻んだのだろう。明闇、寒暖あるいは暖色寒色
など相互に現れることによって、相互にたがいを意識し合
い美しく見せる。さらに「生と死」「男と女」etc。、考えて
みると人間の意識は不思議なことばかりだ。
ぎしぎしや一合毎の標示板         山田 和男
山は高さを十等分に分けて、一合目、二合目、三合目と
いうふうにそれぞれ呼ぶ。つまり、五合目は山のちょうど
真中あたりになる。登山の途次、一合目毎に「海抜何メー
トル」という標示が出ていたのかもしれない。そして、そ
の標示板のあたりにはぎしぎしが伸びていたのだろう。「ぎ
しぎし」は「羊蹄」と書き、タデ科の大形多年草。原野や
道端で普通にみられる雑草で、茎は酸味が強いが食べるこ
とができる。この句「一合毎」がついつい見逃してしまう
ところだ。ぎしぎしが決まっている。
首筋にハンカチあてて語り出す       今泉かの子
ひょっとしたらハンカチは水に濡らしたものなのかもし
れない。涼をとることと日焼け防止。女性はこういうとこ
ろにことに注意をするものらしい。
読書会延期決めたる酷暑かな        荒川 洋子
読書会というものは楽しむことを目的とするもので、頑
張るものではない。ひょっとしたら洋子さんが、その会の
講師、あるいはリーダーなのだろう。読書会は力んでやる
ものではないことを少しのユーモアをこめて叙しているの
がいい。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(七月号より)


あつあつの新馬鈴薯ぱらぱらの饗庭塩     池田あや美
あつあつへぱらぱらと。新馬鈴薯を茹でたか、蒸したか、
或いは揚げたか。熱を加えて出来上がったばかりの新じゃが
に、地元産の饗庭(あえば)塩を振って。素材を活かす簡単
な調理に、その場の和やかな雰囲気まで伝わって来るようで
す。対句の妙味にひらがなと漢字の配置の妙も加わって、で
きたてのおいしさが、湯気の中から広がります。
蛍袋ほつたらかしによく咲きぬ        荻野 杏子
ややぶっきらぼうともとれる中七下五の表現が、蛍袋の生
命力の案外な強さを物語っています。蛍を入れるのに都合の
よい花の形状とその名は、何やらゆかしくもありますが、今
年は、畑のきわや道ばたでよく見かけました。情緒を排し、
ただそこに咲いている存在感に納得します。
緑愁のふと天井の龍の爪           田口 風子
「緑愁」は比較的新しい季語。野や山の緑のエネルギーに圧
倒されて覚える、故知らぬ哀愁をいうようです。本堂の天井
に描かれた龍。その力強さの一端が爪に表されています。堂
内には勢いをもった龍の画、堂の外には、生命力あふれる緑
の草木。夏のエネルギーに一人取り囲まれ、ふと感じるメラ
ンコリーな気分。幾ばくかの孤独感と共に共感を覚えます。
椅子深く雨聴く母の日となりぬ        服部くらら
一句の中を自省的で静謐な時が流れているようです。椅子
に深く座し、雨の音に耳を傾ける姿勢に、単なる記念日では
ない、ひと日を思います。来し方行く末を聴く心の耳。この
「母の日」の母は、何かを生み出す力を育んでくれる、大い
なる存在なのかもしれません。
爆心の叩いて割れる紙風船          中井 光瞬
紙風船はたやすく破れるもの。破れることを自明のことと
して、そのもろさを「爆心」に置いての、このインパクト、
メッセージ。叩けば割れるのです。落せば命がなくなるので
す。当たり前のこと。軽くて薄い紙風船に託された、はかな
く消え去っていった夥しいもの、あまたの命。無念の思いと
共に、平和への強い祈りが込められていると感じました。
水指の葉蓋涼しき朝茶会           沢戸美代子
たまたまですが、我が家にある水指は二種類。金物と陶器
製で、それぞれ蓋はもちろん同種。それが木の葉の蓋とは。
粋な計らいようにまた涼しさも一段と募ります。朝茶会の
清々しさも相まって、清涼感が伝わりました。
涼風や鈴付けてゐる寺の猫          長村 道子
鈴をつけた猫は、自らハンティングできない代わりに、空
腹に困ることもありません。寺の周りを縄張りとし、人から
愛されて過ごす毎日なのでしょう。殺生から遠く離れて、ま
こと、寺の猫にふさわしい。穏やかな日常を通る風の涼しさ
に、鈴の音もまた涼やかに響いてきます。
百合木の花咲き誇る屋敷林          堀口 忠男
一読、景が浮かびました。お屋敷を強風から守るための木々
は高く、その中にあって百合の木の花が、ひときわ見事に花
開いているのでしょう。屋敷林に来る鳥や敷地を訪れる小さ
な命等、四季折々の旧家の暮らしにも、自ずと思いが及びま
す。
鑁阿寺を巡って真鯉錦鯉           清水みな子
鑁阿寺(ばんなじ)は、栃木県足利市にある真言宗大日派
の本山だそうです。境内の広さをうかがい知ることができる
「巡って」。また鯉のリフレインから、色とりどりの鯉の豊か
さや、遊んでいるようなリズムの心地よさも伝わってきま
す。
店閉ぢる橋のたもとの種物屋         関口 一秀
たもと、種物屋という言葉がもつ懐かしさ。句の内容に漂
う一抹の寂しさ。一句の中にバランスよく配されたタ行音と
共に、読む者を自ずと郷愁へと誘っていくようです。
十薬に囲まれをんな独り棲む         江川 貞代
先ごろ、『からつこつつぼ花吹雪』を見事上梓された作者。
装丁の大胆な華やかさは、貞代さんのもつ胆力を感じさせて
くれるもの。掲句も、どきりとする危うさを孕んで異世界に
繋がっています。日蔭や湿った場所を好むドクダミに囲まれ
て、住むではなく棲む女は、十薬の匂いを纏った化身のよう。
深読みすれば、独特の匂いは、人の奥底にある性、業という
ものを呼び覚まし、またそこは十薬の穢れない白を作り出す
深淵でもあるような。不思議な野性の魅力も漂っています。
「はいはい」と夫大事よ亀の鳴く       田畑 洋子
この「はいはい」は快く引き受ける、二つ返事の感じ?そ
れとも適当にあしらう感じの返事でしょうか。昔は「はいは
一回」と言われたものですが、ここは大事な夫なので、前者
の気前のよい返事のようにも思えます。が、季語「亀鳴く」
は空想の季題。この遊び心に、大事な人ではあるのは勿論よ、
としつつ受け流す、のんびりした感じなのかもしれません。
読み方によって、ニュアンスが変化する楽しさよ、亀鳴けり。

十七音の森を歩く   鈴木帰心


雁風呂であるとおぼしきこのぬるさ      伊藤伊那男
竜天に登る鱗を散華とし
涅槃図を巻けば衆生も泣き止むか
(『俳句』七月号「玉手箱」より)
季語の本意を踏まえつつ、季語から想像の翼を広げてファ
ンタジーの世界を描いた三句である。
一句目 「雁風呂」とは、「秋の末に渡ってくる雁が、海上
で羽を休めるための木を海辺に落としておき、春に再びくわ
えて帰るといわれ、残った木片は死んだ雁のものであるとし
て、供養のために諸人を入浴させたという風習」である。雁
がくわえてきた木片であるから、いくら集めて燃やしたとし
ても大した火力は生み出さないだろう。そこで、入った風呂
がぬるいと感じた作者は、雁風呂のことを即座に思い出した
のだ。連想が楽しい。
二句目 「竜天に登る」とは、「想像上の動物である竜が、
春分の頃に天に登り雲を起こし雨を降らせる」ことを言う。
その竜が天に登る時に、鱗を地に落として行く。キラキラと
輝きながら落ちてくる竜の鱗は、春暖の到来を寿ぐ散華のよ
うだ、と作者は言う。鮮やかな映像の復元力を持つ掲句は映
画のワンシーンのようだ。
三句目 「涅槃図」とは、「入滅した釈迦を取り囲み、仏弟
子、諸天、鬼神、鳥獣などが嘆き悲しむさまを描いた絵図」
である。涅槃会を終え、掲げられた涅槃図を巻いていくと、
その中で泣いていた生きとしいけるものたちが泣き止む、と
いうのだ。衆生たちは、中国や韓国にみられる「泣き女(葬
式のときに雇われて号泣する女性)」のようで、えもいえぬ
可笑しみを感じさせる句である。
くりかへす戦争くりかへす桜         石倉 夏生
(『俳句』七月号「地平線」より)
人類の歴史は、まさに「戦争」と「桜」(平和)の繰り返
しと言える。これは、国家間の戦争だけでなく、人と人の日
頃のぶつかり合いにも当てはまる。喧嘩をしては、仲直りを
し、また喧嘩して、仲直りして― これを繰り返して、いず
れは、終生の友となるのであれば、多少の喧嘩や口論は、そ
のための過程として意味があるのだろう。しかし、戦争は、
平和を願う心を無惨にも打ち捨てる。いつまで、このような
愚かな行為を人類は続けていくのだろう。桜の花びらが戦禍
の大地を覆い尽くす日は来るのだろうか。
鳴かず飛ばずゆったり速し蝸牛        橘川まもる
(『俳句』七月号「夏季無題」より)
「鳴かず飛ばず」とは、「長い間何の活躍もしないでいる」
という意味で使われることが多いが、本来の意味は「活躍の
日に備えて機会を待っていること」をいう。他人の評価に振
り回されぬ地道な努力―掲句はその大切さを伝える。
縷々々々と落つる甘酒咽喉は筒         檜山 哲彦
(『俳句』七月号「弧線奔放」より)
歳時記には、「暑い時に熱い甘酒を吹き吹き飲むのは、か
えって暑さを忘れさせるので、夏に愛用される」(『平凡社俳
句歳時記』)とあるが、掲句の場合は、よく冷えた甘酒であ
ろう。「縷々」とは「細く長くとぎれることなく続くさま」
(『大辞泉』)とある。喉を開き、細く長く、細く長く甘酒を
体に流し込んでゆく作者。五体に栄養が行き渡り、力が漲っ
てくる。「縷々々々と」の措辞が秀逸。
水音の広き夜明や水芭蕉           小川 軽舟
(『俳句』七月号「殷々と」より)
広々とした湿地の四方より水音が聞こえてくる水芭蕉の群
生地― さながら巨大な野外コンサートホールにいるかのよ
うだ。「水音の広き夜明」の措辞に心が洗われる。
立葵ほろほろ言葉こぼれ落つ         田中 朋子
(『俳句』七月号「フォルダー」より)
五箇山・小原集落にあるお小夜塚を訪れたとき、その塚と
墓地周辺を取り囲むように立葵が咲いていた。
お小夜は、江戸時代、加賀騒動の罪により、小原に流刑と
なった能登輪島出身の遊女である。彼女は村人たちに唄や踊
りを教え、慕われた。小原の立葵は、そんなお小夜を今も偲
ぶかのように咲いていた。江戸時代の村人の声がその花から
こぼれ落ちてくるようだった。
悪妻や白南風に髪なびかせて         味元 昭次
(『俳句』七月号「辺土通信94」より)
掲句の「悪妻」を額面通り受け取ってはいけない。作者は
奥様のことが大好きなのに、それを公然と言うのが気恥ずか
しいのだ。梅雨明けの明るい空に吹く風に髪をなびかせてい
る奥様―その姿を美しい、と作者は感じた。
作者の奥様への感謝の思いも伝わってきて、心地よい句だ。
黒曜の種をふくめる塾柿かな         長谷川 櫂
(『俳句』七月号「白い山」より)
いかにも美味しそうな柿である。「黒曜の種」の措辞から、
果肉はもちろん美しく、味も特上のものであることがわか
る。農家が丹精を込めて育てた柿であろう。