No.1098 令和5年10月号

井垣清明の書37

蠻觸(ばんしょく)

平成11年(一九九九年)九月 第12回板橋区書道連盟小品展
(板橋区立産業文化会館)

釈 文

蛮触(ばんしょく)。『荘子』に云(い)ふ、「蝸(かたつむり)の左の角
に国する者有り、触(しょく)氏と曰(い) ふ。蝸の右の角に国する者有り、蛮氏と曰ふ。
時に相与(とも)に地を争いて戦い伏尸(ふく)し数万。(以下略)」と。

流 水 抄   加古宗也


うしほ忌の矢作の水に足浸す
良敬忌過ぎれば九月真潮忌
着流しの似合ふ長身真潮忌
秋炬燵入れるが慣ひ真潮忌
大硯は赤間の石よ常閑忌
那智黒の大硯に水うしほの忌
白萩や門跡寺に下乗石
蜻蛉の碧眼と会ふたぢろげる
秋の炉を焚く曲屋に熱き白湯
川舟をいま見ず風のやや冷えて
突き出しは甘酢に漬けし秋茗荷
秋声や唐津の壷の掻き落し
秋雨の加賀や搦手門くぐる
秋冷ゆる金沢の夜やジャズを聞く
止まり木や酒秋灯の下に置く
秋興や九谷の青に九谷の黄
桃咲くや三河にガチャ万てふ時代
焙烙は素焼こそよし零余子炒る
馬(うま)の目皿(め)が焙烙代り零余子炒る
歌詠みの金木犀に足を止む
ぶだう棚抜ければ十字架墓並ぶ
血ぶくれし蚊を打つぶだう棚の下

真珠抄十月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


送り盆母に倣ひし御膳立て      荻野 杏子
片陰ながき刑務所の高き塀      奥村 頼子
ガラスペン滑らす月下美人の夜    田口 風子
モネならどう描く萍に花のあり    三矢らく子
雲の峰馬場に寝転ぶ練習馬      渡邊 悦子
木の瘤は明日も木の瘤油蟬      中井 光瞬
近くともかなかな遠くより聞こゆ   堀田 朋子
汲み置きの水の熱さや原爆忌     工藤 弘子
秋はまだ通りの向かふ昼の街     田口 綾子
灯台の島にふえゆく月見草      水野 幸子
レース編むネイルアートの指反らせ  新部とし子
電柱に標す海抜草いきれ       加島 照子
穂から穂へ風つなぎゆく芒原     飯島 慶子
いつからかレシピを見ずに麻婆茄子  鶴田 和美
かなかなや逢魔が時の救急車     鈴木 玲子
冷酒もてよはひ諾ふ誕生日      髙𣘺 まり子
浜の子と一と目でわかる日焼なり   中野まさし
仏法僧ゆつくり時の過ぎゆけり    堀口 忠男
眼を洗ふ幽かな水音涼しけれ     長村 道子
饂飩粉の手に纏ひつく残暑かな    稲石 總子
人差指すつぽり入り蟬の穴      笹澤はるな
作文の初めての嘘夏休み       堀田 和敬
鮒鮓や琵琶湖にそそぐ百の川     加島 孝允
円墳の日照雨に匂ふ青芒       坂口 圭吾
雷雲や仁王の腕の力こぶ       和田 郁江
炎天や獣舎の前の献花台       浅野  寛
妬心抱く女演じて夏芝居       斉藤 浩美
首にスマホ片手に小型扇風機     岡本たんぽぽ
雨よりも高潮怖き初嵐        高濱 聡光
響き良き下駄を選りたり郡上盆    堀場 幸子

選後余滴  加古宗也


送り盆母に倣ひし御膳立て         荻野 杏子
盂蘭盆会の最後の日を「送り盆」という。七月一六日を
送り盆とする地方が多いが、戦後は、月遅れのお盆が定着
してきており、八月十三日を迎え盆、十六日を送り盆とす
るところが多いようだ。あるいは十五日の夜、送り火を焚
いて盂蘭盆会の行事を終了するところが多くなっているよ
うだ。「母に倣ひし御膳立て」が家族の絆を大切にする作
者の生き方を、如実に示していて心地よい。
木の瘤は明日も木の瘤油蟬         中井 光瞬
いうまでもなく木の瘤は簡単に無くなるものではない。
というよりも、外部からの何らかの衝撃によってできるも
ので、作者は広島の人であり、広島の原爆によって、でき
てしまったもの、と感じ取るのが理解するのに自然だろう。
今年の原爆忌も「原爆許すまじ!」の心で、木の瘤をなで
ているのだ。広島の人々にとって、心の傷も癒えることは
ない。「油蟬」という季語の斡旋が厳しくも、生きている。
仏法僧ゆつくり時の過ぎゆけり       堀口 忠男
「仏法僧」には声の仏法僧と姿の仏法僧がある。この句
はいうまでもなく声の仏法僧を詠んでいるのであり、夜遅
く、真の闇の中にひびく仏法僧の声は、仏の世界から聞こ
えてくるような神秘的な声だといっていい。三河には鳳来
寺という山岳宗教の舞台があり、深山幽谷と呼ぶにふさわ
しい鳳来寺山がある。私の通った小学校では夏休みに六年
生がここの宿坊を借りて林間学校という行事を行っていた
が、その頃はたいて仏法僧が渡ってきており、美しい声を
渓谷にひびかせてくれたものだ。その昔、深見ゆき子、中
川房子、三ツ谷ユキヱの三同人が、鳳来寺に宿泊していた
夜、NHKテレビの実況放送で三人の映像が全国に流れた
ときのことが懐かしく思い出される。作者・忠男氏を探鳥
家、愛鳥家と聞き及んでいるが、どこかで仏法僧を聞いた
に違いない。中七の「ゆつくり」以下の措辞に確かなひび
きがある。
ガラスペン滑らす月下美人の夜       田口 風子
月下美人はメキシコ原産のサボテン科の多年生植物で、
盛花、夜になると白い花を咲かせる。花が放つ芳香は格別
で、いわゆるうっとりがふさわしい甘く優しい香りが部屋
中にひろがる。作者はガラスペンで手紙でも書いているの
だろうか。「滑らす」に真剣な思いが出ているが、けっし
ていやな手紙ではあるまい。随分、むかしのことになるが、
現在「若竹」に「山暮らしの日々」を連載中の平野君の家
に招かれて、月下美人の芳香を楽しませてもらったことが
ある。この句「ガラスペン」と「月下美人」の配合が見事だ。
近くともかなかな遠くより聞こゆ      堀田 朋子
かなかなの声の不思議を見事にとらえている。近くで鳴
いているはずのかなかなが、まるで遠くから聞えてくるよ
うだというのだ。じつは、かなかなの声をこのようにとら
えた俳句を私は見たことはなく、つまり、斬新な俳句とし
て特記するべきことと思う。そしてもう一つ。すでに歳時
記でも紹介されていることだが、かなかなは七月には鳴き
だす、あるいは七月が一番よく鳴くという人もいるが、季
語としては秋に分類されていることだ。つまり、かなかな
の情調がいかにも秋にふさわしいということで秋に分類さ
れていることだ。実際と情調を天秤にかけ、秋の季語とし
ているのは、編集者の詩情を優先した姿勢として、喝采を
送りたい。
片陰ながき刑務所の高き塀         奥村 頼子
刑務所の塀は高い。ゆえに片陰が一層長く見えるのだろ
う。といっても、私は前橋、岡崎、網走くらいしか知らな
いのだが、いずれも通常の民家とは比較にならないほど塀
が高い。
刑務所の塀は一般人の暮しと一線を画するためのもの
で、近づくと異様なほどの威圧感がある。「片陰」という
いかにもクールな表現が一層、刑務所が番外地であること
を印象させるものになっている。
灯台の島にふえゆく月見草         水野 幸子
幸子さんはうっかりすると平凡と思われそうな素材を大
切に一句にまとめることに卓越した才能を持っている。灯
台、島、月見草。ただただ並べただけで、私たちの心は癒
される。それは灯台の白、月見草の黄、そして海の青が視
覚から私の目を優しくなぐさめてくれるからだろう。
人差指すつぽり入る蟬の穴         笹澤はるな
蟬の穴に指を突っ込んでみる。少々危険な行為のようで
もあるが好奇心が勝ってしまったのだ。それで何が見つ
かったのか。ただただ「すっぽり」入ったというだけだが、
それで十分に作者の好奇心は充たされたはずだ、「蛇の穴」
だったらちょっと考えるかな。
炎天や獣舎の前の献花台          浅野  寛
半生を、あるいは一生を獣舎で過ごしたものへ。哀悼。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(八月号より)


蒲の穂に雨しゆうしゆうと当り出す      川端 庸子
しゅうしゅうの擬音から、降り出したばかりの雨について
想像が広がります。ビロードのような蒲の穂へ沁みこんでい
く雨粒の大きさ。音が聞こえるほどの強い雨脚。その雨音が、
勢いよく何本もの蒲の穂へ当たって、こちらへ近づいてくる
感じ。聴覚からとらえられた、臨場感あふれる晩夏の一場面。
プロポーズの薔薇を渡して五十年       中井 光瞬
上五中七までは普通に読んで、最後の下五で作者の存在、
感慨に思いがいたりました。妻と共に歩んだ道のりは、半世
紀。渡した薔薇の色は、やはり真紅でしょうか。熱い想いは
きっと情愛の穏やかさも含んで、今薔薇はさらに深い色に。
姫塚は此処夏草の茂る此処          池田あや美
やっと探し当てたのでしょう。強く指さして「ここ、こ
こ。」と強調された、姫塚のありどころ。何か謂れのある姫
君なのでしょう。祀られたお墓はきっと小さく、今は夏草に
覆われてしまっています。どこでも伸びる夏草の勢いが、そ
のまま歴史の一齣をも呑み込んでいくようです。
初夏の少女目覚むるときの伸び        田口 茉於
一読、朝の清々しさと共に、少女の健やかさを受け取りま
した。朝の目覚めと共に、ぐっと手足を伸ばし体全体をしな
らせて、体も覚醒するのでしょう。新緑の候、健康的に一日
が始まる、初夏の朝です。
きらきらと山の風くる蛇いちご        水野 幸子
蛇いちごのはっきりした赤色は、草はらにあっても道沿い
にあっても目を引きます。かわいくもあり無毒ですが…。上
五中七の措辞に、以前、虫刺されに効くと聞いて、蛇イチゴ
の焼酎漬けを作ったことを思い出しました。作っただけで終
わりましたが、掲句から、薬効があるように思えてきました。
天狗風庭一面の青胡桃            鈴木 玲子
天狗風とは、にわかに空中から吹きおろしてくる旋風(広
辞苑)。まだ熟していない青胡桃が、つむじ風のせいで庭に落
ちてしまったのでしょう。硬い殻を誇る胡桃ですが、今はま
だ成長途中。やや無残な落下の景ですが、これもまた自然の
なせること。天狗様の団扇には抗しきれなかったのでしょう。
噴水の飛沫心は軽くなる           斉藤 浩美
吹き上げた水が上りつめては落ちる、その度に上がる飛沫、
きらめき。繰り返される光景に、何とはなしに心が晴れ晴れ
してきたのでしょう。深読みすれば、人生も生と死、出会い
と別れのくり返し。平明な言葉そのままに、胸の痞えも軽く
なる感じがしますが「心は」の取り出し方に、事態はそう簡
単には好転しないけれど心は明るくなった、そんな印象も。
木洩れ日や熊谷草の母衣揺るる        平田 眞子
熊谷草は、湿気のある所や日蔭を好み、地下茎で増えるた
め、人の踏み入った所には広がらない、絶滅危惧種。木漏れ
日はそんな成育環境にぴったり。ちらちら入る日の光が母衣
の揺れとも呼応し、貴重な熊谷草のありようを伝えています。
夏帽子忘れし土手で待つてをり        三矢らく子
この夏帽のとびきりにかわいい存在感。「私を待っててく
れたのね。」作者の弾んだ声が聞こえるようです。昨今の殺
人級のような猛暑に、夏帽子は手放せない必須アイテム。そ
の愛着感に、きっと夏帽も「ずっと待ってましたよ」と。
巫女の髪和紙で束ねて桐の花         加島 照子
よく見かける桐の花は「巫女の振る鈴のように紫色の筒形
の花が花序をなして咲く。」と歳時記に記載がありました。
黒髪と白い和紙と紫の花。神聖なる世界に、文句なしの色
の配合。また、どこからか涼やかな鈴の音も聞こえてきそう
です。
ひるがえる時かはほりの羽根透ける      乙部 妙子
以前はよく見た蝙蝠を近頃は見かけません。が、作者の観
察眼の鋭さに、確かにと納得。広げた羽根の骨の影だけが、
くっきり黒く見えたのでしょう。まだ明るさの残る夕つ方、
薄い膜のような翼で空を飛ぶ、不思議な哺乳類を活写。
梅雨晴間夫はじめての卵焼き         米津季恵野
目玉焼きではなく調理法も様々にある卵焼き。そこにチャ
レンジする新鮮さが、二人の間柄を初々しいものにしていま
す。緊張感や愉しさをともに分かち合う、梅雨晴間の明るさ。
薔薇五月首からめあふフラミンゴ       堀場 幸子
薔薇の華やかさと五月の瑞々しさ。そしてフラミンゴの生
命力。首をからめ合う様子は求愛行動でしょうか。薔薇のば
ら色、フラミンゴのオレンジのようなピンクと、色合いも美
しい。「ら」音の軽やかな韻律に、光あふれる五月の景です。
虹の端を岬にかけて慰霊の日         安井千佳子
「慰霊の日」は沖縄忌の傍題です。かつて私が訪れた残波
岬は断崖絶壁。米軍の手にかかるよりは、と多くの犠牲者が
出た岬でした。毎年必ずと言っていいほど、沖縄の句を詠ま
れる作者。美しい虹に慰霊と平和への祈りを込めて。

一句一会     川嵜昭典


百態の闇を抜けきて昭和の日         中村 克子
(『俳句』八月号「黒と黒」より)
昭和元年は一九二六年。十二月から始まっているので実質
的には数日しかないが、この年や翌年の一九二七年の出来事
を調べると、例えば豊田佐吉が豊田自動織機製作所を設立し
たり、南京事件が起きたりしている。改造社の『現代日本文
学全集』も一冊一円で売られたそうだ。一方、昭和六三年や
六四年の出来事は記憶に新しいが、東京ドームができたり、
インターネットの規格もこの頃に出始めたりしている。この
振れ幅を「百態の闇」とは言い得て妙だが、「闇」という言
葉に含まれているものはそれ以上に深く、重い。そこに、ま
さに昭和を生きてきた人の声にならない祈りのようなものが
ある。また、やはり昭和は過去のものになったのだという感
慨も持つ。
あめんぼの恋ぶつかつて乗りあげて      江中 真弓
(『俳句』八月号「けふ四つ」より)
あめんぼは、孵化して交尾をし、産卵を終えると寿命を迎
える。いわば束の間の一生の、激しさのようなものがある。
「ぶつかつて乗りあげて」というのは、そんなあめんぼの、
生き方の一つを表しているようである。そして「あめんぼの
恋」と、擬人化した表現によって、あめんぼがぐっと身近に
感じられる。
オンライン会議制止しててふてふ       関根 かな
(『俳句』八月号「莢」より)
オンライン会議なので、会議の最中に自分でこっそりと楽
しめばいいものを、制止してまで何事か、と思うと「てふて
ふ」という、その落差が面白い。ただ、作者にとってみれば
その蝶はとても大切なものであったのだろう。オンライン会
議というのは、その集団にとっての価値観を一つに定めるた
めにとても大切なものだが、蝶というのは、作者個人の価値
観にとってとても大切なもの、そういう対比がこの句にはあ
る。この自分にとって大切、というのが俳句にとって一番な
のではないかと思う。
けふよりの蜻蛉の空と思ひけり        石田 郷子
(『俳壇』八月号「灯影」より)
蟬の声も一段落しつつある中で、その年最初の蜻蛉が目の
前を横切るとき、少しほっとする。それは暑さがようやく落
ち着くのだ、という身体的な喜びを持つこともさることなが
ら、今年も秋と出会うことができたのだ、という感情的な喜
びを持つことが大きい。「けふよりの蜻蛉の空」は、そんな
秋の空を、それもまだ秋としては若い空を、清々しく表現し
ている。また「思ひけり」の「けり」に強い意志の力を感じ、
秋が来たのだ、という喜びを強くする。
緑陰を出て新たなる音階に          佐藤 麻績
(『俳壇』八月号「目測」より)
緑陰の、葉擦れや鳥の声を抜けたときの、その場所の音に
はっとした、という句。その場所にはその場所の音がある、
ということは当たり前のようでいて、意外に気付かない。考
え事をしていると猶更だ。何も考えず目や耳、触感を解放し
ながら自然の中を歩くことが今は難しくなりつつあるとも思
う。
鏡台の曇り許さず生身魂           清水 和代
(『俳壇』八月号「川音遥か」より)
自分の祖父母を辿るだけでも、百年くらいの開きはある。
生活の態度や価値観が違うのは当たり前のことだ。とはい
え、それを違う、ということだけで片付けてしまっては、人
というものが生きていく価値はないように思う。自分の繋が
りのある人の生活態度を、なぜ、と考えるのは、その時代の
人々の生き方を知ることでもあるように思う。掲句の「許さ
ず」という言葉には、ずっと言い伝えられて来たものを真摯
に守ろうとするような祈りがある。人、という生き物がずっ
と大切にしてきたものがあるように思う。
一本の桜ふぶける大蛇塚           亀井雉子男
(『俳壇』八月号「蛍火」より)
蛇塚に桜を植えたのか、偶然に蛇塚に桜の木があったの
か、いずれにしろ、蛇塚などは、その地その場所の人々が、
大切にしてきた何かを語り続けてきた証だろう。情報が溢
れ、世の中が均質化する以前の、地に足の着いた、もっと人
間臭い人々の暮らしぶりがそこにはある。そしてそこに咲く
桜には、少なくとも人が、蛇を含めた自然を畏敬してきた美
しさがある。
少年の手に迷ひあり笹小舟          笹瀬 節子
(『俳壇』八月号「十返りの花」より)
どのコースを辿れば笹舟がひっくり返らずに進むのか、遊
び一つでも迷いは付きまとう。ただ遊びといえども、少年に
とって、その瞬間は全世界を背負ったような重さがそこには
あるのだろう。笹舟は小さいが、少年の思いは大きい。