No.1099 令和5年11月号

井垣清明の書38

平成11年(一九九九年)十月
第34回北城書社展(上野の森美術館)

釈 文

飲(イン・のむ)

流 水 抄   加古宗也


多治見修道院 五句
ぶだう棚抜ければ十字架耶蘇の墓
血ぶくれし蚊を打つぶだう棚の下
赤ワインは主の血の色よぶだう摘む
神の子と呼ばれし子らがぶだう摘む
ワイナリー持つ教会やぶだう畑
金沢
秋の夜や香林坊にジャズを聴く
一水に沿ふ一村や秋惜しむ
秋灯まばゆし首に三重のネックレス
鬼の子の蓑出てしきり妻を呼ぶ
郷中に火の見櫓や柿の秋
萩刈られあり森閑と宝戒寺
秋晴を来て古井戸を覗き込む
行く秋の夕日柱をまぶしめる
今もある一揆の名残り銀杏散る
松色を変へず丹塗りの火頭窓
松色を変へず大国主の杜
参道にまつぼつくりを拾ひけり
山の辺の小道こほろぎ昼を鳴く
秋冷や拭き艶しるきデスマスク
小春日や十一間の畳廊
浮御堂は観音開き鴨のこゑ
木枯や首落ちさうな万治仏

真珠抄十一月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


月涼しサーカス団の眠るころ      田口 茉於
草の上に置きある碇赤蜻蛉       酒井 英子
風涼し玄関脇に妻の椅子        鶴田 和美
洛北の暮色障子に添水鳴る       市川 栄司
刈込みの過ぎたる一樹残暑光      荻野 杏子
夏祭疫病明けの人の波         春山  泉
一人づつ登る岩峰天高し        山田 和男
調弦の耳そばだてて涼新た       池田あや美
初秋やノリタケ薔薇の見本帖      田口 風子
薬師寺の見えて蜻蛉増えて来し     三矢らく子
花野行くたった一句を拾うため     斉藤 浩美
雲走る雲流る雲動く秋         桑山 撫子
コスモスや浅間小浅間画布にのせ    鈴木 玲子
赤とんぼ出合いは何時も目の高さ    稲石 總子
新藷の薄皮ほどの自負を持つ      加島 照子
花野原嬬恋村にうしほ句碑       関口 一秀
あきつ飛ぶ石支へ合ふ石舞台      奥村 頼子
さつきよりずれて寝てゐる秋の猫    川嵜 昭典
新米を食べて百姓冥利かな       濱嶋 君江
スーパーの前に大鍋防災日       奥野 順子
信号は赤かまきりの前のめり      大澤 萌衣
日めくりをめくり忘れて秋暑し     髙𣘺 まり子
涼新た言葉繰り出す指の先       工藤 弘子
仔燕が二百十日の電線に        堀口 忠男
夏の夜歌舞練場の灯の戻り       梅原巳代子
語られぬ秋思ビオラの音に似たり    竹原多枝子
懸巣鳴くバイクを洗ふ沢の水      長表 昌代
底紅や友の娘の署名記事        石川 裕子
秋天をぐるり四十路の逆上がり     飯島 慶子
水底に光の波や水澄める        笹澤はるな

選後余滴  加古宗也


一人づつ登る岩峰天高し          山田 和男
作者は山男だと聞いている。かなり以前になるが、群馬
県の上毛新聞社の記者から作家に転じた横山秀夫に『クラ
イマーズハイ』という小説があった。山登り、中でも岩峰
をよじのぼるときの登山者の心理状態は極めて独特なもの
があるようだ。「一人づつ登る」にクライマーの確かな感
覚が見えて力強い表現になっている。
秋深し兄の手彫の蔵書印          荻野 杏子
作者のお兄さんは本が大好きなのだろう。大好きなゆえ
に蔵書印を押す。蔵書印はこの本は私の宝物ですよ、と宣
言していることと同じで、そこに押された朱肉の美しさが、
たまらない。好きな物というのは陶芸も印も同じで、自分
で作ると、それにすぐるものはないのだ。この気持は、魚
屋で買ってきた魚よりも、自分で釣ってきた魚がおいしい
と感じることに通じる。そして、八百屋で買ってきた野菜
や果物よりも自分で育てたものの方がおいしいと思われる
のと同じだ。時折り、蔵書印を押された本を手にしたとき、
読んだときのことが懐かしく思われるのだ。
赤とんぼ出合いは何時も目の高さ      稲石 總子
赤とんぼという昆虫はいつも目の高さに飛ぶものだろう
か。赤とんぼにとって、目の高さはどんな意味を持ってい
るのだろうか。あるいは全く何の意味もないことなのかも
しれない。にもかかわらず、「出合いは何時も目の高さ」
なのだ。科学的な根拠を示されぬまま、この目の高さに納
得させられるのが俳句の力というものなのかもしれない。
縄文の土器の線描涼新た          酒井 英子
縄文土器も弥生土器も、その形、紋様など、さりげなく
意匠を凝らしている。つまり、人間の根源的な欲求として
「意匠」というものがあるのかもしれない。手の上に乗せた
縄文土器の線描に太古の人々のセンスを楽しんでいるのだ。
児童書のみ扱ふ古書肆色鳥来        市川 栄司
古書肆はそれぞれ特徴を持った店が多い。神田の古書街
もそうで、文学書、医学書、美術書など徹底的に特徴を出
すことによって、集客力を上げている。田舎町でもそうで、
都会ほどではないが、こだわりを見せている店が多いのは
楽しい。少なくとも店のスペースの一部にそんなところを
見せているのも好ましい。古本屋のオヤジという言葉があ
るが、それは、古書店主に頑固な人の多いことから生まれ
た言葉なのかもしれない。
初秋やノリタケ薔薇の見本帖        田口 風子
名古屋街近くにノリタケカンパニーと呼ばれた古い陶磁
器のメーカーがある。しゃれた庭園やレストランなどがあ
り、名古屋市民の憩いの場としても人気がある。そして、
メインはノリタケの工場見学で、職人さんの作業現場をつ
ぶさに見学できるようになっている。ノリタケの製品製作
にあたっての古典的な見本帖などもあって興味はつきな
い。そんな展示品の中に「ボーンチャイナ」と呼ばれる牛
の骨を焼いて作った真白な粉末があり、まさに純白とはこ
のことだと思われる美しさだ。
涼新た言葉繰り出す指の先         工藤 弘子
「言葉繰り出す指の先」とは、手話の一場面を切り取っ
たものだろう。耳の不自由さは、老人にとってつらいこと
だが、補聴器と言う道具がある。それに対して、若くして
聴覚を失った人のつらさははかりしれない。そんな人々の
ために考案された手話はすばらしい発明だと思う。手話を
操る人の誠意がなんとも美しいのだ。「言葉繰り出す」は
誠意を美しく言い取った表現であり「涼新た」はその時の
作者のまぎれもない感動だ。
夏祭疫病明けの人の波           春山  泉
「夏祭」の本意の一つに、疫病退散祈願がある。ここ三
年余り、コロナは大流行でほんとうにまいった。政府によっ
て一応、コロナ明けが宣言されたが、そう宣言通りにはい
かない。しかし、宣言に乗りたいというのも、この長いマ
スク生活にうんざりした国民のいつわらざる本音だ。「疫
病明けの人の波」に開き直った市民感情が見えて、見事な
俳味を見せている。
新藷の薄皮ほどの自負を持つ        加島 照子
新藷をふかすと、じつに薄い皮が見え、それを指先で剥
がして取る。新藷の場合、薄皮がついていても、けして藷
はまずくないが、それよりも剥がすときの皮の薄さに思わ
ずほくそえんでしまうことがある。「薄皮ほどの自負」と
は思い切り謙遜した表現だが、そのまま受け取るのではつ
まらない。
月涼しサーカス団の眠るころ        田口 茉於
ふとピエロに象徴されるペーソスがこの句にはある。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(九月号より)


夏朝顔一年生を連れ来たる          岡田つばな
朝顔は、小学一年生が育てる定番の教材です。一学期の間
に、種まきから開花まで。行灯仕立ても、手軽なプラスチッ
クの組み立て式。夏休みに入れば、それぞれ家で世話をして
種採りまでを観察。掲句はその朝顔を自宅へ持ち帰る場面、
或いは子等が寄ってきたのでしょうか。朝ごとに、蕾の大き
さの順に開花する朝顔は、普段の暮らしに添う身近な花。あ
どけなくも非力な一年生に、一日花の明るさが重なります。
夏休み野球帽子はエンゼルス         荻野 杏子
二刀流を冠して、実力人気ともナンバーワンの大谷翔平選
手。今現在は、復帰が待たれるところですが、さりげない振
舞からも人としての魅力に溢れています。また、チーム名と
もかすかに響き合う、あの純真無垢ともいえる笑顔。野球帽
子に託された心情は、「夏休み」の季語を得て、さらに大き
く広がりました。自分だけの時間をもてる夏休みの自由さ
が、きっと少年の心を育む時間になるのでしょう。
句襖に座して自づと涼生まる         渡邊たけし
ここはきっと、宗也主宰がお住まいの守石荘の一室。鬼城
直筆の襖が入ったこのお座敷はもちろん、庭には句碑もあ
り、文化遺産のような佇まいです。俳人や文化人等著名な方
も数多く訪れたと聞きます。かつてここに泊まった方の中に
は、鬼城の目に見えない気に、圧を感じられた方もみえたと
か。俳人にとっては、自ずと背筋の伸びる空間なのでしょ
う。作者にとっても、今も鮮やかに目に浮かぶ、心に涼風を
吹き込んでくれるところなのだと思います。
春の雨糸屋染屋が筋違ひ           市川 栄司
京都の道は碁盤の目のように東西と南北が直交し、その通
り名は手まり歌にもなっています。糸屋と染屋は西陣織つな
がり。作業工程上、距離的に近い所にあるのでしょう。「糸」
のように細く、真っ直ぐ「筋」のように落ちる雨。春の雨が
静かに降る古都、京都の風情が伝わります。
日盛りの入江に広き屑処理場         山田 和男
夏の日の暑い盛り、静かな入り江には、人間の生活から出
たゴミ処理の施設が広く位置を占めています。人けもない、
無機質な処理場に照りつける日差しの強さ。やや殺伐とし
た、でも、どこか既視感のある、夏の盛りの一景と思いまし
た。
この夏は鯛屋の次男に惚れにけり       荒川 洋子
この鯛屋の次男とは、江戸時代の浄瑠璃作者、俳諧師の紀
海音(きのかいおん)のこと。大阪の菓子商「鯛屋」の生ま
れ。「この夏は」という限定された特別感とともに、下五の
きっぱりとした潔さが爽快です。今夏出会った次男に、ぞっ
こんの作者。沸騰化する地球の暑さにさらに熱い夏の昂ぶり。
子燕と土捏ねる子と球蹴る子         堀田 朋子
子の三連打。山の方で見る燕は集団で営巣するイワツバメ
です。子燕が仲間と好きなように飛ぶ様子は、見ていて気持
ちがいいもの。人間の子は静と動。それぞれ自分の興味の向
いたところで、夢中で或いは力いっぱいやりたいことをやっ
ている、そんな様子。幼きもの同等に三者三様。未来もまた。
夏旺ん水切りかごに壜の立つ         大澤 萌衣
一読、壜の透明感と、立っている壜のすっきりとした感じ
が、清涼さを感じさせます。動作としては、水を切るために
逆さに伏せたのでしょうが、「立つ」の措辞が洗いあがった
壜の美しさや、また夏の勢いも伝えているようです。
吾影に集ふ金魚と小半時           関口 一秀
小半時は約三十分。水に映った自分の影に金魚が寄って来
る、それは近しい間柄。かわいい金魚たち。きっと餌をやる
習慣から、自ずとなついてきたのでしょう。もの云わぬ生き
ものとつながったように感じられる、よい時間です。
滝の前みんな素直になりにけり        犬塚 玲子
平易な言葉で、上から下へストレート、句の内容にも適う
流れです。きっとこの滝は、轟音やしぶきがあがる大きな
滝。自然の大いなる景を前に、身も心も浄化されるようです。
米蔵の並ぶ奥庭花南天            橋本 周策
南天は、難を転ずる縁起のいい木として、よく庭などで見
かけます。南天の花は白くて小さくまるで米粒のよう。奥まっ
た庭に、咲く花と並ぶ蔵との米つながりも、またたのし。
声援に小さく手を上ぐ日焼顔         今津 律子
中七の措辞に含羞が感じられて、様子が目に浮かびます。
この日の為に練習を積んだ証の、日焼け顔。そして、その努
力を知っているからこその声援。「廃部」の題が心にしみます。
布袋草水中出産選びし娘           鈴木こう子
妊婦として選んだ分娩方法が水中出産。きっと浮力で痛み
や負担が軽減されるのでしょう。布袋草は水を浄化する作用
もある浮き草。布袋草が美しい薄紫の花をつけるように、無
事に出産を、との願いが込められているようにも思いまし
た。

十七音の森を歩く   鈴木帰心


風船につまらなさうに日の差しぬ        小鳥遊五月
日めくりの平日は黒卒業す
(『俳句四季』九月号「曇りのち晴」より)
一句目 紐に繋がれた風船が風に揺れ、その風船に日が差し
ている。風で前後左右に揺れている風船は、イヤイヤをして
いる子供のようで、風船こそが「つまらなさうに」している
ように思える。しかし、作者は「つまらなさうに」している
のは、風船に差し込む日光の方だと言っている。
この主客の反転―まるで「ルビンの壺」(騙し絵の一種。
見方によって、白い壺にも、向かい合う2人の横顔にも見え
る図形)を見ているかのような気持ちにさせられる句だ。
同じ現象を違った観点から見ると、新たな発見がある―こ
の句はそのことも教えてくれる。
二句目 平日に挙行される卒業式。卒業する自分にとって、
今日はハレの日であるのに、カレンダーは黒である。平日だ
から当然なのだけれど、カレンダーが自分に合わせて祝って
くれるわけではない、という事実に気づかされる。
ハレの日、という非日常の日は、国民の祝日を除けば、人
によってまちまちだ。つまるところ、自分にとってのハレの
日は、自分だけで、あるいは、気の置けない友や家族とだけ
で祝えばいい、ということになる(同じことはケの日にも言
える)。
卒業して社会に出れば、「日曜に出勤日めくり黒に見え」
となる場合だってあるだろう。
夏掛けの淡き色すらもてあます         和泉 直子
ポケットにレモンがあるといふ強さ
(『俳句四季』九月号「虹の中」より)
一句目 「夏掛け」―麻の肌掛け布団であろうか。色は淡い
水色、いかにも涼しげだ。麻は、心地よいシャリ感や清涼感
があり、肌に心地よい。以前であれば、この肌触り、この色
合いだけで、夏の夜の暑さは十分に凌げた。
しかし昨今の、とりわけ、今年の夏の暑さは異常だった。
床についた作者の寝苦しさが、下五「もてあます」から伝
わってくる。
二句目 掲句より、高村光太郎の詩集『智恵子抄』所収の
「レモン哀歌」を思い出した。死の床にある妻、智恵子が、
夫、光太郎に求めたものが一個のレモンであった。
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
(中略)
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
(「レモン哀歌」より)
筆者には、掲句と、この詩がかすかに響き合っているよう
に思える。命に力を与えるレモン―それをポケットに忍ばせ
ている作者。それだけで作者には力が漲ってくるのだろう。
レモンに含まれるビタミンCは、お肌に良く、クエン酸は
疲労回復に効果がある―いざとなれば、ポケットのレモンを
取り出して「がりり」だ。
口中が酢に驚いて心太            岡田 一実
(『俳句四季』九月号「塔の影」より)
掲句を読んだだけで生唾が湧いてきた。酢のよく効いた心
太だったのだろう。心太のタレは甘味と酸味のバランスがポ
イントだ。
五歳にも懐かしき本夜の秋           徳永 真弓
(『俳句四季』九月号 雨上がる」より)
筆者も作者と同じ経験をしたことがある。「懐かしい」と
いう気持ちは、幼子には無縁だと思っていた。しかし、五歳
の孫が、「このおもちゃ、懐かしい」と言うのを聞いて驚い
た。幼子は、前だけを向いて日々を駆け抜けていくのかと思
いきや、まだ日数を数えられるほど僅かな「過去」を振り返
ることもあるのだ、と気付かされた。新鮮な感動だった。
花火爆ぜ温き枕を裏返す           柿本 多映
(『俳句四季』九月号「巻頭句」より)
掲句を読んで、次の句が思い出された。
ねむりても旅の花火の胸にひらく       大野 林火
掲句も林火の句も、眠りにつく床での花火の高揚感を詠ん
でいる。林火は、花火が終わった後の、作者は花火の最中の、
自身の感動を描いている。
花火の爆ぜる音に、作者の高揚感はいやが上にも高まって
いく。心の落ち着きを取り戻すため、作者は枕を裏返す ―
ここに俳味がある。「温き枕」の措辞にもリアリティがある。