井垣清明の書40聴 泉平成12年(二〇〇〇年)十月 第20回武蔵野書人会展(埼玉会館) 釈 文泉を聴く (歐陽修『豊楽亭記』「仰而望山俯而聴泉」より) |
流 水 抄 加古宗也
岡崎城址
内堀に丹の橋架かり淑気満つ
釈迦堂の大扉開けあり松三日
早や松も過ぎ氏神の落葉焚き
人日や選仏場の片戸開く
てつちりやたつぷり一味唐辛子
寒四郎朝から熱き茶の欲しき
寒四郎寺銭箱を抱きかかふ
潮騒の島指呼にあり寒凪げる
臘梅の一枝生けあり詩仙の間
野間大坊 源義朝忌
太刀塚に木太刀溢るる三日かな
風花や血の池に立つ大塔婆
仏の座摘めば七種摘み足りし
寒土用壁を切り裂く鳥の影
風車からから寒の水子仏
寒禽の来てをり次の声を待つ
影堂に灯の回りきし笹鳴ける
神島は釣鐘に似て寒夕焼
寒鰤は三枚おろし出刃は関
ふぐさしに似合ふ有田の赤絵呉須
風呂吹やたれは八丁味噌厚く
鼻唄は与作てふ唄寒明くる
真珠抄一月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
冬空や出土の太刀はねぢ曲り 関口 一秀
パントマイム秋日を掴みては放ち 堀場 幸子
網戸掴み産卵を待つ疣毟 堀口 忠男
露伴邸に子供下駄あり秋の午後 岡田つばな
経師屋の低き軒借る京時雨 市川 栄司
小春日や久々に聴く平家琵琶 荒川 洋子
綿虫の小さな命囲いけり 乙部 妙子
小春日や夫の匂ひの腕時計 工藤 弘子
故郷やはやも庭先雪を積む 荻野 杏子
石段は男の歩幅ばつた跳ぶ 加島 照子
鳥たちの声聞たくて冬干潟 池田あや美
こけし絵の鼻緒の湯下駄もみぢ踏む 天野れい子
間引菜は根までやはらか朝サラダ 鶴田 和美
献幣師てふ職賜りて夫の秋 鈴木 恵子
一段と小股のチワワ寒の朝 飯島 慶子
身に入むや綺麗に残る喉仏 岡本たんぽぽ
店内の明るさを出て秋の暮 竹原多枝子
あれがヒョンの笛だったのか父の部屋 野崎 由美
紅葉かつ散る親鸞の草鞋掛け 神谷つた子
秋ぶらり木喰館に茶を啜る 渡邊 悦子
里芋や嫁を気遣ふ母の味 松元 貞子
小鳥来る招待状は爆心地 中井 光瞬
すさまじや千手の一手髑髏持つ 奥村 頼子
古暦未だ予定は消化せず 田口 綾子
三婆のしゃがんで話す秋の昼 髙山 と志
出しなとは違ふ寝しなの月の色 服部くらら
新松子蹴つてお堀へ落としけり 川嵜 昭典
風なくて声よく届く残る虫 堀田 朋子
チャンバラの好きな大人や秋真昼 白木 紀子
長き夜やオセロゲームのきりもなく 磯貝 恵子
選後余滴 加古宗也
パントマイム秋日を掴みては放ち 堀場 幸子
「パントマイム」という言葉を『広辞苑』で引くと「台
詞を言わず、もっぱら身振りと表情とで演ずる演劇。無言
劇・黙劇。マイム。ミーム。」とある。そんなパントマイ
ムの中で、私が衝撃的に魅了されたのが、壁を伝って歩く
ような仕種だ。壁が無いのに、まるであるように身体を移
動させる演技はすごい。日本の古典的な芸の一つ「二人羽
織」というのがあるが、これもそんな芸の一つだろう。無
い物を、あるが如くに演じるあの見事さ。「秋日を掴み手
は放ち」。その演技に絶句したのは、私も、幸子さんも、
そんなパントマイムのファンたち。「絶句」するのは私だ
けではなかったことを身近な人に、見つけてうれしい。
古暦未だ予定は消化せず 田口 綾子
「予定は未定であって決定にあらず」という言葉がある
があれもしよう、これもしようと思いながら結局できずに
終わってしまうことが何と多いことか。私はこういうとき、
「まあいいさ」と一人で呟くことにしている。そのほとん
どが人生の中で、そんなに大事ではないことが多い。
故郷やはやも庭先雪を積む 荻野 杏子
望郷の念は年を数えるに従って強くなるものらしい。私
のように人生の大半をふるさとで暮してきた人間には、そ
の心境を想像するほかはない。そして、ふるさとを持って
いる人はとても幸せなのではないだろうか、と思ったりも
する。「望郷」「思郷」がそれだが、それはとことん美しい
ところだろうと思う。作者は飛騨高山地方がふるさとだと
聞いた。私は青年時代から飛騨地方が好きで何ども訪ねて
いる。それは瀧井孝作(俳号・折柴)の影響が無かったか
といえば、それは無しとはしないが、飛騨の風土、人情、
そして、高山の木彫細工、数えあげれば切りがない。「は
やも庭先雪を積む」はまさに故郷・飛騨の原風景だ。
冬空や出土の太刀はねぢ曲り 関口 一秋
上州(群馬県)は日本有数の古墳の多いところだと聞い
た。これまで前橋市内をはじめ、桐生、高崎など、あちこ
ちの古墳とそこから出土した展示物のある博物館などを案
内してもらった。全て山紫会の仲間の思いやりで実現した
ものだが、超一級の出土品がおびただしい数、展示されて
いて私を魅了してやまない。「出土の太刀はねぢ曲り」は
即ち激しい戦闘の結果であることは明らかで、人類はどこ
までも暴力、戦争を繰り返している。「折れた」ではなく
て「ねぢ曲り」に、人間の業を感じてすさまじい。
小鳥来る招待状は爆心地 中井 光瞬
作者は広島に住み、広島を愛し、そして、原爆を非人道
的暴挙と考えている。それは広島を愛する一市民としての
静かだが強い思いである。今日は爆心地で反原爆の集いが
開かれるのだろう。作者は「理不尽」と言うことを身体で
理解してる人のようだ。
小春日や夫の匂ひの腕時計 工藤 弘子
作者はこの秋、ご主人を亡くされた。上掲の句からは作
者の慟哭が聞こえてくる。人間には五官というものがある。
視覚(目)、聴覚(耳)、嗅覚(鼻)、味覚(舌)、触覚(皮膚)
がそれだが、その中で断然優れているのが視覚で、つづい
て、聴覚だといわれている。嗅覚からはぐんと薄く、ある
いは弱い感覚になるが、匂いは最も身近かな感覚であるこ
とも私たちは知っている。「夫の匂ひの腕時計」から弘子
さんの悲しみの声が聞こえてくる。
すさまじや千手の一手髑髏持つ 奥村 頼子
千手観音の前に行って、ふと観音の千手の一本が髑髏を
持っていることに気づいたのだ。「すさまじ」という季語
がじつに見事に決まった一句。観音様はおだやかな表情を
していることが常識だけに、その常識が破られたときの衝
撃として季語が面白く効いた。
綿虫の小さな命囲ひけり 乙部 妙子
綿虫を小さな命ととらえたところがいい。事実小さい虫
だが、「小さい命」ということで、綿虫への愛おしさがに
じみ出て美しい。掌の中にそっと包み込んだのだ。
間引葉は根までやはらか朝サラダ 鶴田 和美
「間引葉」は大根のそれだろう。さっと塩を振って一夜
漬けにするのもおいしいが、サラダもまたおいしそうだ。
朝引いたばかりのものを、さっそくいただくのもぜいたく
な食べ方といえばそれに違いない。
一段と小股のチワワ寒の朝 飯島 慶子
うちの近所にもチワワを飼っている人がいて二頭、いや
二匹をいつもつれて散歩している。兄弟かと思ったら親子
だという。これが何ともかわいい。やさしい表現ながら意
外に映像の復現力の強い句。「寒の朝」の「寒」という季
語が意外によく効いている。
竹林のせせらぎ 今泉かの子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(十一月号より)
新涼や水を使へば水跳ねて 工藤 弘子
何気ない日常の一齣に掬い上げられた季節の移ろい。夏の
かすかな涼しさは、秋の澄んだ涼しさへ。水を使ったときに
水が跳ねるのは、いつものことですが、「新涼」の季語の鮮
度から、新鮮な光景に見えてきます。跳ねたしぶきの、きら
めきや清涼感。共感と共に初秋の空気感まで伝わります。
星月夜水車の音の絶え間なく 髙橋 冬竹
この秋はよく夜空を見上げました。月のさやけき夜もいい
ものですが、星が降ってくるような空もまた、見ごたえがあ
ります。水車のまわる音には人の営みが、夜空の星々には悠
久の時が、それぞれのスパンをもって時が流れています。ま
た「星降る夜」の下、人の鼓動と星の鼓動も響いて♪…。
月下美人囲む一人に一つの燈 田口 風子
題は「秋の月下美人」。見に行くところから帰るまでを一
つのストーリーのように仕立てた、連作五句のうちの一句。
一夜限りの花を囲んで、花の深奥へ光を当てて覗き込んでい
る様子が目に浮かびます。燈に照らし出される花の光と影
は、その人ごとに。芳香漂う花に魅せられたある夜のこと。
底紅やまつ毛の長き三姉妹 水野 幸子
一読、中原淳一の描いた昭和の女性誌「それいゆ」の表紙
絵が浮かびました。長いまつ毛はそれだけで、ときにチャー
ミング、ときに憂愁な影を宿して魅力的です。美人三姉妹に
ふさわしい、柔らかな花弁とあでやかな真紅の花芯、底紅。
筏師と遊女の所帯水引草 堀田 朋子
舞台はいわゆる世話物。粋な筏師の訳ありの恋も無事に成
就。今は所帯を持って、仲睦まじくひっそりと暮らしている、
そんな物語が思われます。水引草は、こぼれた種からも生え
る逞しい花。細長い茎に小さく灯る赤い色もまた、艶っぽい。
今なぜか人で愁思をうれしがる 大澤 萌衣
先だって、ダライラマが一人の少年を高僧の生まれ変わり
として認めた、というニュースが報ぜられました。輪廻転生。
今生はなぜか人と生まれて、この秋、胸に去来するさまざま
な思いを賜ることができたのよ、という境地なのでしょうか。
壮大なスケールをもちながら、意外な展開の下五。この素敵
なへんてこりんさが、妙にたのしい。斬新なる愁思。
子の声のして道に出る敬老日 荒川 洋子
少子高齢化の日本。聞こえてきた子どもの声に、家から道
へ出たという行動は、来るのを待ちかねてのことだったので
しょう。家族を通して輪はつながり、絆も広がって。顔を合
わせ言葉を交わすことが、何より嬉しい敬老の日です。
書き出しは残る暑さやメールにも 髙𣘺まり子
いつまでも暑い残暑の日々に辟易。便りにもメールにも、
まずは「残る暑さ」と書き始めるのです。書き出しは残る、
の展開の面白さと共に、強く肯きたくなる日本の初秋でした。
施設には施設のドラマ秋日和 鈴木 帰心
一般社会と若干距離感をもつ施設にも、施設なりの社会が
あることを伝える「ドラマ」が雄弁です。施設の暮らしの悲
喜こもごもを、秋日和の季語が穏やかに包んでいます。
刈田ゆく影持たぬ風平らかに 犬塚 玲子
以前稲穂を揺らしていた風は、今は揺らすものはありませ
ん。あるのは短い稲の株だけ。今年の役目を終えた田が、秋
空の下に広々と広がって。刈田の景に寄せた風の一句。
月代や夢二抱かれ猫となり 磯貝 恵子
竹久夢二の代表作「黒船屋」。夢二の想い人、彦乃が黒猫
を慈しむように抱いています。想いの強さに、作者は猫に夢
二を見たのでしょう。白々とした空が、切ない心情と響きま
す。
水晶宮夏の灯に透き通る 浅野 寛
この水晶宮は、東山動植物園の温室前館。鉄骨溶接とガラ
ス張りの大温室は、昼間見ても圧倒されます。幻想的で厳か
な気配が漂う、夏の夜に浮かぶ水晶宮の美しさ。
予報士に目をつつかれて台風来 廣澤 昌子
中七のあるある感と共にこのおかしみ。確かに予報士は差
し棒やペンの先等で進路を解説します。が、まるで予報士に
けしかけられて、台風がやってくるよう。軽妙さが光ります。
唐突に秋が来るなり今朝の空 岩田かつら
実感をもって秋の季節の到来を詠まれました。そうなので
す。暑い、暑いといっていたある日、突然ああ秋だなぁと朝
の空を見上げて感じられたのでしょう。共感いたします。
秋の蚊を誰か部屋へと引き連れし 橋本 周策
まず蚊に刺された人がいて、いきなり出現したその蚊に、
部屋を出入りした誰かが連れてきた、との見解になったので
しょう。限られた空間に現れた秋の蚊に、ゆるくも警戒すべ
しとも、命尽きる前のあはれとも。
十七音の森を歩く 鈴木帰心
一対といふ明るさに紙雛 江崎紀和子
更衣いのち一つを繰り返し
(『俳壇』十一月号「花の幹」より)
一句目 「一対」というものの醸し出す美しさ、「一対」の
放つ光の明るさ―縁あって、人生を共にして歳を重ねる「夫
婦」にもそんな「一対」の光がある。
二句目 「更衣」は、「また季節が巡ってきた」という感慨
を起こさせる。それは自分のいのちの尊さを見つめ直す節目
とも言える。
螢火や生者に見ゆるものわづか 西村 和子
(『俳句』十一月号「初風」より)
ある哲学者は、次のように書いている。
私たちの生命は、大宇宙という大海から生まれた
「波頭」のようなものだ。波が起これば「生」、
また大海と一つになれば「死」―永遠に、これを
繰り返していく。
夏の夜に明滅する蛍の光は、そんな大宇宙の海原に現れて
は消え、また現れる「波頭」を想起させる。生者・死者を抱
き育む海原の大きさ、豊かさに思いを馳せつつ、掲句を味
わった。
猛暑日や鉄は旧字の鐡と化す 小林 貴子
(『俳句』十一月号「甘露」より)
小学校低学年の頃、国語辞典の巻末に旧漢字と新漢字の対
照表を見つけた。見比べると新漢字に比べて旧漢字のなんと
物々しいことか―そのことに驚いた記憶がある。
掲句を読み、そんな記憶が蘇ってきた。夏の激しい暑さと
旧漢字―たしかにその二つの威圧感には通じるものがある。
生身魂昔は人を悲しませ 栗林 明宏
(『俳壇』十一月号「風雲」より)
波乱万丈の人生を送ってきて、今は、周りの人たちを和ま
せる好々爺となった。人の人生の断面図は、幾層もの喜怒哀
楽の人間模様から出来上がっている。
手を放すより流燈は風のもの 三村 純也
(『俳壇』十一月号「盆」より)
流燈を胸に抱くとき、遺族は先祖とともにいる。流燈が放
たれ、ゆらゆらと遠ざかって黄泉の国に向かうとき、風がそ
の水先案内をする。残された者たちは、いい風に導かれて、
先祖が戻っていってほしい、と願う。
蟷螂の己以外は全て敵 大関 靖博
(『俳壇』十一月号「押し競饅頭」より)
法師蟬ゆるい約束だから友 奥山 和子
(『俳句』十一月号「惑い」より)
二氏の句を並べ、季語のもつ趣の違いを味わってみたい。
「蟷螂」の句 蟷螂は全方向に意識を集中し、外敵から身
を守るべく斧を構えている。まるで、自分を追い詰めて、「己
以外は全て敵」と思っているかのような威嚇の構えだ。
その姿の滑稽さと哀しさ― 世の中に「友」という存在が
いることを知り、そんな「友」に心を通わせれば、人生は豊
かで心穏やかなものになるだろうに(無論、蟷螂の構えは、
厳しい自然を生き抜くためのものであるのだけれど)。
「法師蟬」の句 法師蟬の鳴く頃は、夏の暑さも和らいで
来て、心にも余裕が生まれてくる。そんな中、気の置けない
友と会う約束をする― それも都合が合えば会おうよ、くら
いのゆるい約束。そのゆるさを許し合えるのが友― そのよ
うな友を蟷螂にも引き合わせてやりたいものだ。
林住期経て遊行期へ猿酒 丸谷 三砂
(『俳壇』十一月号「空想季語に遊ぶ〔秋冬篇〕」より)
インドでは、人生を四つの期間に分けるという考え方があ
る。それが、「学生(がくしょう)期」、「家住(かじゅう)期」、
「林住(りんじゅう)期」、「遊行(ゆぎょう)期」で
ある。そのうち、「林住期」は、いわゆる「第二、第三の人
生」の時期、そして「遊行期」は、いわゆる「終活」の時期
に相当する。
その二つの時期の橋渡しをするものが「猿酒(ましらざ
け)」であると作者は言う。筆者は、この空想季語から「認
知症」のことを思う。人生の最終章で直面するもろもろの辛
さ、苦しさを和らげてくれる、この「猿酒」は、天が与えた
恵みなのかも知れない。
月光に崩れし波の裏おもて 黛 まどか
(『俳壇』十一月号「紙魚ひとつ」より)
着物にも裏地の美しさに心奪われることがあるが、自然の
造形美にはそれを凌ぐものがある。「月光に崩れし」―これ
は「月光の下に崩れし」が本来の意味であろうが、「月の光
によって崩れし」とも読める。寄せては返す波が着物の裾の
ように「裏おもて」を見せる。掲句のもつ映像の復元力の見
事さ。一幅の絵のようだ。