井垣清明の書42神仙伝・麻姑平成14年(二〇〇二年)一月 釈 文漢の孝桓帝の時、神仙王遠、字は方平は、蔡經の家に降る。将に至らんとする一時頃、金鼓簫管(しょうかん)・人馬の聲を聞く。 |
流 水 抄 加古宗也
初蝶や小諸城址に義塾跡
大手門より初蝶の高舞へる
椿寿忌や文庫句集を膝に繰る
姨捨の眼下は千曲春惜しむ
知立には昔馬市酸葉噛む
蝶乱舞して甘藍の出荷畑
呉須絵皿いつの間に来し春の蠅
いつの間に春の蠅来てカレーの香
桜蕊降る登城坂下城坂
前橋にて
辛夷咲いて風呂川と云ふ街の川
暖かや桶屋の軒に木地干され
安曇野にて
長閑さや二連水車の音軽く
今朝摘んできし蓬もて餅をつく
竹の秋風足助にいまも弓師住む
竹の秋風龍宮と云ふ淵のぞく
渡船場は浮桟橋や海月浮く
駒ケ根にて
芍薬や家苞に買ふ養命酒
知多いまも溜池多し杜若咲く
修司忌やまだ雪残る津軽富士
棒鼻を抜けて吉良道茅花道
真珠抄三月号より 珠玉三十句
加古宗也 推薦
数へ日や母喜ばすこと捜す 堀田 朋子
袖を詰め丈詰め母の冬パジャマ 池田真佐子
寒の月海はひたすら波送る 中井 光瞬
年の夜や巡査の啜るカップ麺 堀場 幸子
冬の日や城址に隣る木の校舎 髙𣘺 まり子
明の春玉虫色の鳩の首 工藤 弘子
極月の新聞記事も戦なり 石崎 白泉
歌留多取り始めて直ぐの大地震 黒野美由紀
初夢や亡き子と競ふ喧嘩独楽 市川 栄司
数へ日や家族総出で肉を買ふ 高濱 聡光
篝火や妬心を拔ふ除夜の鎧 渡邊 悦子
白鳥の青草食べて昼寝する 堀口 忠男
注連縄や千年樟は正に神 烏野かつよ
肌め細かきふる里の餅届きたり 磯村 通子
マスクして世間の風に遅れけり 斎藤 浩美
作業場に絵付師一人初仕事 和田 郁江
帰り来る子に大鍋のおでんかな 水野 幸子
電車しか撮らぬ子冬の紅葉撮る 鶴田 和美
いろいろな管につながれ寒波急 荻野 杏子
餅花や木の家どこか軋みをり 大澤 萌衣
煤逃や逃げ切れぬと知りつつ逃げる 坂口 圭吾
葉牡丹の緋色は母の帶の色 稲吉 柏葉
冬帽とマスクの人に会釈さる 奥野 順子
教え子より小さく明るき見舞花 三矢らく子
冬至の日風呂はいいなと夫の言ふ 服部 喜子
ジオラマを朝から作る大晦日 川嵜 昭典
その話初めて聞くぞ焚火の夜 堀田 和敬
小春日や茶舗の土産に砂糖菓子 梅田けい子
豊川のいなり寿司買ふ二日かな 松岡 裕子
すり足に齢は見せず弓始め 加島 照子
選後余滴 加古宗也
明の春玉虫色の鳩の首 工藤 弘子
俳句は共感によって成立する。別の言い方をすれば「俳
句は鑑賞を待って完結する」文学だと思う。作者がいくら
名句だと思っても、作者の感動を共有する読者がいなくて
はどうしようもない。私は弘子さんが鳩の首を見て、その
玉虫色であることを発見して、感動したように、この句を
見てかつて見た鳩の首の玉虫色の美しさが甦って、強い共
感をおぼえた。しかも、「明けの春」という季語の斡旋が
吉兆を感じさせてうれしい。
寒の月海はひたすら波送る 中井 光瞬
青海波(せいがいは)という伝統的な紋様がある。浜辺
では波は寄せるが、瀬戸内では「ひたすら波送る」が実感
なのだろうと思う。それも寒月が高い天から波を照らして
いる様が美しく神秘的に見えてくる。
ジオラマを朝から作る大晦日 川嵜 昭典
忙しい毎日を送る作者だが、さすがに大晦日はお休みにし
たのだろう。大晦日くらいは子供のためにジオラマをつくる。
きっぱりとそう決めたらしいことが一句から立ちあがって
くる。それが俳句の面白さであり、不思議さだ。朝から作
り始めたが、それがついに夜にまで及んだように見えるの
に、作者の几帳面さが一字一字から滲み出してくるからに
他ならない。子煩悩はとことん美しい。美徳と言っていい。
年の夜や巡査の啜るカップ麺 堀場 幸子
大晦日は何かと事件事故の起きやすい日。交番の巡査さ
んもゆっくり食事をしている暇もない。その昔、日清製粉
の即席ラーメンが、売り出したとたんに大ブレーク。それ
はインスタントものにしては味がよく、すたることなく、
今も家庭でも常備されるようになっている。「年の夜」と「巡
査」を結ぶカップ麺。見事な配合であると同時に、どこか
そこにその街が健康に動いていることが見てとれるのがい
い。カップ麺を啜りながら、街の明り、往く人々の表情が
明るいのをうれしく見守っている巡査だ。
数へ日や家族総出で肉を買ふ 高濱 聡光
年末年始は常日頃控えている肉を思い切りたっぷり買っ
て、たっぷり食べようというのだ。庶民の代表のような暮
らしぶりに、思わず拍手喝采したくなる一句。「すきやき」
のことを別に「ひきずり」というが、いかにも、おいしそ
うな大きい肉片を引っぱりっこして食べる様が見えてきて
ほほえましい。そして、駄目押しは「家族総出」だ。一年
の総決算、締めくくりとして楽しい。
初夢や亡き子と競ふ喧嘩独楽 市川 栄司
「亡き子と競ふ」がせつない。
袖を詰め丈詰め母の冬パジヤマ 池田真佐子
「袖を詰め」「丈詰め」と年老いて小さくなってゆく母親
の様子を着衣で表現している。ただ「小さくなった」と表
現するのではなく具体的に表現することで、読み手はそれ
を想像して自身の母親の姿と重ね合わせることになる。そ
して、それがパジャマであることがいよいよリアリティの
ある母親の姿を脳裡に描くことになる。パジャマが庶民の
詩である俳句の素材としてきわだったものになっている。
作業場に絵付師一人初仕事 和田 郁江
陶器あるいは碗に絵を描く職人を絵付師という、ことに
磁器は多くの場合、絵付が大切な工程になる。愛知県から
岐阜県にかけて、陶磁器の産地がつらなっている。主な産
地を拾うと常滑・瀬戸・多治見・土岐・瑞浪と何キロにも
わたっている。作者はそんな産地の一つ瑞浪の人で、一句
の誕生に少しの無理も感じないのはそのためだ。「絵付師一
人」がいかにも零細な作業場を思わせて、親しみをおぼえる。
もっとも陶芸家と呼ばれる人の多くは少人数で、あるいは
一人で轆轤から絵付までしているのが普通だ。この句「初
仕事」が少しの緊張とともに淑気が感じられて心地よい。
冬帽とマスクの人に会釈さる 奥野 順子
「冬帽子」をかむって、しかも、「マスク」をしていたの
ではじつは、どんな人相なのか皆目わからない。わからな
いが、会釈されると、さて誰だったかと、しきりに考えさ
せられる。コロナの大流行以来、こんな経験をした人が多
いに違いない。私もそうで、わからないままに曖昧に会釈
を返した後の心地の悪さはけっこう後を引いたものだ。
その話初めて聞くぞ焚火の夜 堀田 和敬
「その話初めて聞くぞ」から、驚きとともに、何か内緒
にされていたような気がして、少しばかり心の中がざわつ
いたりするものだ。ところが、それを言った本人は、たい
したことはないものだからと、忘れていることの方が多い。
この心の微妙なすれちがいが、この句を面白くしている。
心の機微というものだろうか。
豊川のいなり寿司買ふ二日かな 松岡 裕子
豊川稲荷の門前にはおいしい稲荷寿司屋が並ぶ
竹林のせせらぎ 今泉かの子
青竹集・翠竹集作品鑑賞(一月号より)
師系守ること一心に冬桜 荻野 杏子
「悼 いはほ様」と題された一句です。晩年の鈴木いはほ
氏に思いを寄せるとき「一徹」「句魂」の言葉が印象的に思
い出されます。単なる言葉ではなく、いはほ氏の体に染みつ
いて、体の中から出てきた真実の言葉であったと思っていま
す。寒気の中、小花をつけて咲く冬桜の愛おしさが身にしみ
ます。
屋形船の名はあきんどや秋麗 鈴木 帰心
以前、近江八幡の手漕ぎ舟に乗った際、船頭さんが「心を
尽くせば、お客さんが次のお客を連れてくる」と話術巧みに
話され、さすが近江商人と感じ入ったことを思い出しまし
た。掲句は、市内の濠をまわる屋形船なのでしょう。歴史あ
る水郷の里の、水辺の穏やかさと響き合う、秋の日の麗かさ。
鳥の木も風の木も晩秋の音中井 光瞬
鳥がとまっている木も、風に枝葉が揺れている木も、それ
ぞれ音を発しています。自然界の中でも焦点が当てられたの
は、垂直方向に立つ木。秋の澄んだ大気は、冬のわびしさを
誘う晩秋の寒気へと近づいています。木々の声、息遣い。し
ばし、暮の秋の声に耳を傾けて。
月冴ゆる四肢金網にかけしまま 大澤 萌衣
凍てつく夜、空中に留まる小さな骸(むくろ)が、月光に
さらされている美しい光景を思いました。一つの死が、浄化
されてゆくような、張りつめた寒さ、澄み渡る月の光。亡き
骸を金網に残して、天上界へ誘われていったかと思うよう
な、どこか幻想的な月の凍れる夜です。
老農は天鍬を杖に冬菜畑 関口 一秋
天鍬(てんが)とは?調べてみると、持ち手の柄の部分が
刃先より少し突き抜けている鍬のことをいうようです。刃の
裏面から飛び出ている木が直接地面に当たる形状は、杖その
もの。畑仕事をしてきた老いた手に馴染んだ、使いやすい道
具なのでしょう。厳しい寒さの中、畑に見える冬菜の青さが、
まだまだという活力を象徴しているかのようにも思えます。
灯を消してちちろと同じ闇に臥す 奥村 頼子
灯を消したこの闇は、今生に生を受けた、生きとし生ける
もの皆を取り巻く闇。太古の頃から続く、夜の闇。夜の帳の
中、この暗きに横たえる我が身も、小さなコオロギも、みな
等しく一つの命。安らかな一つひとつの眠りを包む一つの闇。
初炬燵すぐ眠くなる幸せで 乙部 妙子
ほっこりしますわぁ。この安心感。わかりますわぁ。この
ぬくぬく感。炬燵を出さない部屋のすっきり感もいいもので
すが、沼のような炬燵の魅力。やはり、はまってしまいます。
秋扇の揺れて御園座二階席 天野れい子
御園座錦秋歌舞伎。今年は「四谷怪談」の暗さと「神田祭」
の華やかさが際立つ二部構成でした。仁左衛門扮する伊右衛
門の色悪と玉三郎のお岩。今回は幽霊としての派手な演出は
なく、お岩の置かれたありようが胸に迫りました。掲句は二
階席ならではの客席の眺め。お召し物にも似合う秋扇です。
一途とはこんな顔かも毛糸編む 斉藤 浩美
熱心に指を動かし一心に毛糸を編んでいる、その顔つきに、
普段見ない表情を見たのでしょう。本人の自意識の外の、無
心に動く指の動き、手の運び。それはいつか一つの作品に。
柿吊す祖母の手爪にいつか似て 髙𣘺まり子
手爪(てづま)は、手先。干し柿を作る作業は、やってみ
ると剥き方から、吊るし方までいろいろな技やコツがありま
す。焼酎を塗ったり拭いたり、揉んだり手をかけて。日本の
の暮らしの知恵が、手から手へそっと受け継がれています。
万聖節老人興ず輪投げかな 安藤 明女
晩秋の季語、万聖節は「諸聖人祭」の傍題。十一月一日、
カトリックの秋を代表する祝日だそうです。そんな祝日の催
しの一つが輪投げ。誰でもできて、わかりやすい。輪を投げ
て遊べる、平和な集いに感謝する日でもあるのでしょう。
娘に髪を揃へてもらふ秋日和 岩瀬うえの
縁側ではないのかもしれませんが、ついそんな想像をして
しまう、秋の好日。昔、娘の髪を揃えてやった母は、今は揃
えてもらう立場に。時が育んだ母娘のつながりに、秋の日差
しが明るく降り注いでいます。
夢に子はいつも幼しそぞろ寒 石川 裕子
この夢の子は現実にはもう大きくなっているのでしょう。
でも、親にとって子どもはいつまでも子ども。何とはなしに
寒いと感じる気持ちに、いつまでも子ども扱いしてしまう、
やや複雑な母の思いも込められているような気がいたしま
す。
ハロウィンの猫耳付けて塾に来る 黒野美由紀
上から下へそのまま読んで、句意も平明。そんな軽さがハ
ロウィンの浮かれ気分にぴったりです。ハロウィンのコスプ
レのまま、塾へきた子。勉強もそのノリで捗ったかな。
十七音の森を歩く 鈴木帰心
今回は、『俳句年鑑 二〇二四年版』(KADOKAWA)
掲載の「諸家自選五句」の三〇六〇句の中から、異なる作者
の作品を二句ないし三句ずつ選び、それらを並べて鑑賞して
みた。
息継がぬAIの声年の果 小川 軽舟
息継ぎの聞こえてきたり初披講 和田 順子
耳あてを外し頭で考へる 鴇田 智哉
(『俳句年鑑 二〇二四年版』より)
「年の果」の句。 科学技術はまさに日進月歩であり、その
象徴的な存在がAI(人工知能)である。最近では、テレビ
のニュースをAIが流暢に読み上げるまでになった。「AI
は人間を超える」という意見も耳にする。しかしAIといえ
ども、所詮人間が作り出した科学技術に過ぎない。人間のよ
うに「息」をすることもしない。だが、それにしても、昨今
はAIの「声」を頻繁に聞くようになった。
「年の果」の季語から、世の中の今後の行末への不安感が
伝わってくる。
「初披講」の句。 そんな世の中にあって、句会は、AIを
遠ざけて、人と人とが集いあう場所だ。深く息をつくことも
できるし、人のぬくもりを感じあうこともできる。
今年初めての句会。披講師は心新たな気持ちで句を読み上
げる。句会場はしんと静まり返っており、その披講師の息継
ぎまで聞こえてくる。朗々と読み上げる声に、一句一句が立
ち上がってくる。AIの披講師ではこのような場は生み出せ
ない。
「耳あて」の句。 掲句の「耳あて」は、無論、耳を凍傷か
ら守る防寒具のことであろう。しかし、「外し頭で考へる」
の措辞に、「耳あて」から、スマホに繋がっているヘッドホ
ンを連想した。スマホに搭載されている音声アシスタントの
シリやアレクサもAIの一種だ。この便利なAIのおかげ
で、昨今の人間は自分の「頭」を外に預けてしまっている感
がある。作者はそれではいけないと思い、「耳あて」を外し、
「頭で考へる」ことにしたのだ。
蚕部屋ありし二階へ雛仕舞ふ 明隅 礼子
獅子舞の来たる時より酒匂ふ 三村 純也
(『俳句年鑑 二〇二四年版』より)
この二句を並べると、筆者には五箇山(富山県南砺市)の
情景が浮かんでくる。
「雛」の句。 五箇山の合掌造りは、住まいの他に「工場」
の機能を持つ。かつては夏場に二階で養蚕、冬場は土間で紙
漉き、そして床下で火薬の材料となる煙硝作りをした。掲句
を読み、そんな合掌家での雛納めの様子が見えてきた。
「獅子舞」の句。 「獅子舞」は新年の季語であるが、五箇
山では、春祭と秋祭に獅子が出る。祭は、庄川の下流から上
流の集落へと順々に行われ、各集落の青年団がそれを取り仕
切る。氷見獅子の流れをくむ「むかで獅子」が集落を一軒ず
つ回りながら、激しく踊る。家々で酒が振る舞われ、「花」
(祝儀)が打たれる。そのお礼口上が独特の節回しで読み上
げられる。合いの手が入り、周りから笑い声が起こる。獅子
舞の漢たちは皆、酒の匂いを身に纏っている。
新刊に栞の跡や霜の花 陽 美保子
秋風や書き込みのある本を買ふ 杉田 菜穂
帰省して一冊の本持ち帰り 片山由美子
(『俳句年鑑 二〇二四年版』より)
「霜の花」の句。 掲句の「栞」は、洋装本に付いている栞
紐であろう。栞紐のよれが新刊本の一頁に跡を付けた。その
跡が作者には美しい花柄に見えたことが、季語「霜の花」か
らうかがえる。新刊本をわくわくしながら読み始めた作者の
姿さえも見えてくる。
「秋風」の句。 ネットで古書を買うとき、その説明に目が
いく。書き込みの有無、折れの有無、傷みの程度、など。そ
れらと値段とを見比べる。財布に余裕がない時は、多少の書
き込みは目をつぶって、より安価な古書を選ぶ。
作者も妥協して「書き込みのある本」を買ったのだろう
か?あるいは、古書店で、手にした本の書き込みに逆に興味
を覚えて、あえてその本を買ったのだろうか?
古書を買うと、前の持ち主の書き込みに共感する場合と、
違和感を覚える場合がある。その本の内容に関連する新聞や
雑誌の切り抜きが挟んである時や、表紙の裏に著者の直筆サ
インを見つけた時などは、思わずほくそ笑んでしまう。
「秋風」の斡旋から、作者は、あるいは、素敵な「書き込
みのある本」に出会えたのかも知れない。
「帰省」の句。 実家に帰り、学生時代に読んだ本を手に取っ
てみたところ、その本を読んだ頃の懐かしい思い出が蘇って
きたのだろう。それで、もう一度ゆっくり読んでみようと、
その本を自宅に持ち帰ったのだ。
「霜の花」の句のように、まっさらな本を読むのも楽しい
が、掲句のように、昔の自分と今の自分とを重ね合わせつつ、
若き日に読んだ本を再読し、そこにある自分の書き込みを懐
かしむのも同じように楽しい。