No.1104 令和6年4月号

井垣清明の書43

黜 華(ちゅつか)

平成14年(二〇〇二年)一月
第20回日書学春秋展(銀座・松坂屋)

釈 文

黜華(ちゅつか) (華美なものを取り除く)
(『旧唐書』礼儀志)

流 水 抄   加古宗也


河骨の一輪彌陀の如く立つ
尊氏が開基の古刹井守棲む
子供の日魚ひろばに軽業師
青森県八戸へ
海猫こぼれさうや五月の蕪島
釈迦堂は桧皮葺なり松の蕊
水郷に架かる土橋や鷭の声
葭切や近江水郷手漕ぎ舟
水郷は首夏船頭の紺法被
水郷を艪音行き交ひ鳰浮巣
手漕舟寄せ堀割の花菖蒲
堀割に菖蒲や瓦ミュージアム
近江にはたねやてふ菓舗柏餅
子燕や楽市楽座発生地
水郷はかはたれどきに水鶏鳴く
親不知子不知卯浪立つところ
薫風や篠山に無き天守台
巣燕や丹波篠山古窯館
由比正雪生家
藍染の風呂敷を買ふ由比は首夏
新茶古茶飲み分け茶菓は和三盆
かまきりや修道院の鉄扉
飛燕一閃鳴海絞りの店並ぶ
薫風や校旗の上の日章旗

真珠抄四月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


火のあらば火に手をかざし寒四郎     工藤 弘子
片手まだポケットの中寒明ける      加島 照子
読み返す年賀終ひといふ言葉       鶴田 和美
その中に笹子の声もありにけり      田口 茉於
低ければ低きがままに梅の花       大澤 萌衣
大寒や手に触るるものみな刃       市川 栄司
夕凍みや榛名の脇の草津みち       坂口 圭吾
春耕や天地返しを少しづつ        磯村 通子
悴む指ぽきぽき鳴らし支溝掘り      辻村 勅代
寒星や握りの太き父のペン        平井  香
使つたら返して欲しい目借時       田口 綾子
鮟鱇のつぶらなる目に海の色       水野 幸子
北窓を開けば竿にはためくもの      髙𣘺 まり子
新暦夫の予定は青インク         琴河 容子
なゐの地に安息在りや梅八分       石川 桂子
如月やささくれてきし舫ひ舟       髙橋 冬竹
俳号の由来を聞かれ初句会        岡本たんぽぽ
最終のゼロ番線に雪女          笹澤はるな
夫連れて産みに来る娘よ寒の中      松田美奈子
セーターをほどく次のもの編むために   竹原多恵子
冬晴やグローブ届く始業式        梅田けい子
蔵前の泥つき葱の太さかな        春山  泉
毛糸帽手を振る列の先にいて       岡田真由美
制服に想ひを隠しショコラの日      松元 貞子
無人駅出でて美濃路や浅き春       烏野かつよ
ほかほかの糞を踏むなよ春の象      白木 紀子
早春や子はランドセル開け閉めす     鈴木こう子
寒厨やかんの蓋を斜めにし        鈴木まり子
篦鷺の篦もて翼つくろへり        堀口 忠男
悴む手包む大きな悴む手         野崎 由美

選後余滴  加古宗也


夕凍みや榛名の脇の草津みち         坂口 圭吾
作者はじわじわと力をつけてきた。楽しみな同人の一人
である。「自分らしさ」は、俳人として立つための必須条件
だが、これがなかなかむつかしい。まず、自分自身で自分
らしさをみつけることは簡単ではない。しかし、それを見
つけ出す努力をしなければ前進はないといっていいだろう。
そういう前提の中で、掲出の句は、じつに心地のよい「立句」
になっている。「立句」というのは、連句の最初の一句をい
うが、まず立姿が美しくなければならない。そして、「景」「情」
に広がりがなければならない。上掲の句にそれがすっきり
と詠み込まれているのは、上州を詠んでいるからに他なら
ない。作者の風土を真正面から一気呵成に詠み切っている。
ゆつたりともの云ふ女大枯野
上毛三山に囲まれる上州。日本三大河川の一つ、利根川
が貫く上州。そこで生まれ育った作者であればこそ、じつ
に自然体で風土が詠み切れている。「かかあ天下と空っ風」
というが、上州の女性は辛抱強く温かい。厳しい風土の中
で何代にもわたって生き抜いてきた働きものの女性たちな
のだ。作者はそんな風土に生き抜く女性たちを好ましく
思っているのだ。
その中に笹子の声もありにけり       田口 茉於
鶯が冬の間、薮や雑木林の中で、チャッ、チャッ、チャッ
と舌打をするように鳴くことを笹鳴きという。雄も雌も冬
期は地鳴きだが、やがて春になると雄だけがホーホケキョ、
と鳴く。これを初鳴きという。ホーホケキョはいってみれ
ば恋の歌だ。雄が雌に美しい声でプロポーズする。上掲の
一句は、恋のシーズンを迎える前の鶯の地鳴きだ。薮騒だ
けでなく笹子の声が聞こえ始めるともうすぐに春だ。
片手まだポケットの中寒明ける       加島 照子
「片手まだポケットの中」がおしゃれなユーモアになっ
ている。「まだ…中」がそれだが、そのすぐ後に「寒明ける」
と展開するところが洒落ている。寒が開ける、即ち、立春
が来たというのに、片手はまだ、冬のままだという、とら
え方は、なかなかに手練の句といえよう。
悴む指ぽきぽき鳴らし支溝掘り       辻村 勅代
冬の水の少ないうちに、家の周りの溝の補修をするのだ。
「ぽきぽき鳴らし」が、いかにも寒中の寒さを伝えてユー
モアのある表現になっている。
防寒帽まぶかにかむり支溝掘り
もまた、厳しい作業をユーモアで包み込んで過不足ない。
悴む手包む大きな悴む手          野崎 由美
「包む大きな手」は夫の手か。はたまた、恋人の手か。
いずれにしても愛情のこもった大人の手であることに間違
いはない。読者にも暖かな心がストレートに伝わる一句。
読み返す年賀終ひといふ言葉        鶴田 和美
「年賀終い」ということばは「今回をもって年賀状を出
すのをやめます」という意味らしい。こういう年賀状はコ
ロナが流行してから急に増えてきたように思う。私などど
うして年賀状を出すのをやめなければならないのか、その
意味するところがわからない。コロナの流行をよい機会と
して年賀状を出すという面倒をはぶこうということのよう
に思われる。ひょっとしたら数年前から相手とのつきあい
を止めたいと思っていたのかもしれない、と思ったりする。
一年に一度の年賀状だけのおつき合いの人もあるが、年賀
状を見ると、まだ元気でいたか、とうれしくなる。そして、
一年に一度でいいから、おつきあいを続けてゆきたいと心
から思う。細いつながりでもいい。いつまでも、一人でも
多くの人とつながりを持ちつづけていたい。年賀状のこと
をかつて「虚礼」といって、批難した人がいたが、虚礼と
思う人はその本人が虚礼としての年賀状だったのだろう。
なゐの地に安息在りや梅八分        石川 桂子
今年一月一日の能登の大震災は日本国民の多くが大きな
ショックを受けた。そして、今も「なゐの地に安息ありや」
の気持ちでいる。復旧の目途もまだまだついていないよう
に見える。つまり、時間が半ば止まっている状況といって
いい。梅はいま芳香をいっぱいに放っているというのに。
夫連れて産みに来る娘よ寒の中       松田美奈子
「夫連れて」に時代の違いがくっきりと見える。親子の
ありよう。夫婦のありよう。あるいは家族のありようも、
例えば、二十年前とはずいぶん違ってきている。家族の問
題は人口問題ともつながっており、例えば韓国では今年、
女性一人の出生率0.72人だという報道を聞いた。つまり、た
いへんな勢いで人口減少が進んでいる。掲出の句は、仲良
し夫婦を描いた一句であると同時に、結婚することを、「独
立する」といった時代と違ってきていることに、少しの心
配が心をよぎった、ということだろうか。その心は「寒の中」
にある。

竹林のせせらぎ  今泉かの子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(二月号より)


木乃伊仏かしぎ放下の口冴ゆる        酒井 英子
横蔵寺の舎利堂に安置されている即身仏です。放下(ほう
げ)とは、一切の執着を捨て去る禅宗の言葉。確かに無明の
闇を呑み込んだかのような、大きく開いた口が印象的でした。
寒の極まった中、生きたまま仏になられた存在の透徹さ。
心電図ひやひや取られ冬に入る        髙橋 冬竹
「ひやひや」が効いています。実際に感じた皮膚感覚と、
検査対象としての不安な心もちとの合わさった感じでしょう
か。冬に入る緊張感が一句全体を包みながら、そこはかとな
い俳味も加わって、実感、そして共感の一句。
厨子冴ゆる皓歯のままに木乃伊仏       池田あや美
前出の句と同じ季語や言葉を遣いながら、掲句は残ってい
る歯に焦点を当てました。黒っぽい全体像に、意外とも感じ
る歯の白さ。冷え切った寒気の鋭さが、より歯を際立たせた
のかもしれません。「ままに」の、現代まで続く強靭なるもの。
合格守買うて帰りも冬桜           髙瀬あけみ
合格祈願のお守りを手にしての、冬桜。厳寒の中、小さな
花をつけて咲く桜には、健気さと同時に、逞しさも感じます。
行きも帰りも見た冬桜に、合格の「サクラサク」を願って。
絵馬堂の絵馬の駆け出す神の留守       水野 幸子
絵馬堂から絵の馬が外に飛び出し駆けていく。そんな姿を
想像するだけでも楽しい。今では絵の種類も豊富となった絵
馬ですが、元々馬の代わりに奉納した絵の馬。神がお留守の
間、絵馬も大胆な振舞に。祈願も成就しそうな、神がかり。
本陣の刀箪笥や冬構             石崎 白泉
冬を迎える気構えというもの。もののふの武具を納める刀
箪笥のどっしりとした安定感が、来るべき冬に備える覚悟を
感じさせてくれます。物に託されて伝わる、季語の本意。
玄圃梨の果軸たわわに屋敷林         堀口 忠男
玄圃梨(けんぽなし)の季語を初めて知りました。広辞苑
には高さ五m、大歳時記には十五m。何れにせよ、屋敷を守
る役割からして樹高は高いのでしょう。食べられるのは実で
はなく、奇妙なごつごつした形の果柄の部分。甘い梨のよう
な味だとか。鳥だけでなく木にも詳しい作者の日常詠。
月夜野の名胡桃城や村時雨          関口 一秋
月夜野(つきよの)は、群馬県北部にかつてあった町の名。
名胡桃(なぐるみ)城は、秀吉等の覇権争いの後、最後は廃
城となりました。歴史的な古い名のもつ美しさ、時代の空気
感と共に、流れに翻弄された小さな城へ降る、静かな村時雨。
からっぽの檻を見て来て牡丹鍋        乙部 妙子
その檻にいた猪ではないのでしょうが、鮮明な赤い肉を前
に、ふと思う、生きて命のあった猪。因果があるようなない
ような、微妙なところ。命を頂いて、永らえるヒトも生き物。
子は秘密持ち始めけり冬の月         川嵜 昭典
「ポケットに手を突っ込んで卒園」の子は、バルタン星人
が好きになり、いつしか秘密をもつようになって。冷気に冴
える月の光が成長の証の一つ、独りの世界を照らしています。
おでん鍋角のやさしき具を揃へ        岩田かつら
おいしそうです。大根や卵、練り物などの丸さに加え、時
間をかけて煮込んで角がとれたおでん種。出汁のよく染みた
たくさんの具に、あたたかで和やかな雰囲気も伝わります。
冬晴や「い」の「一番」から柱組む      長坂 尚子
冬の晴天の清々しさ。冬青空の下、いろはの「い」の一番
から、順送りに柱が組まれていきます。組んだ柱の上には、
気持ちの良い、緊張感のある冬の青空が広がっています。
紙箱にビーズの指輪ふゆやすみ        石川 裕子
大切な思い出のような指輪です。冬休みはクリスマスや節
季が入って、短くも忙しい。そんな慌ただしさから離れた一
人の世界。籠りがちな冬に、手作りの箱、手作りの指輪の光。
花月香薫りて古き森を聞く          梅原巳代子
「花月香(かげつこう)」とは、はて?「花」(春)と「月」
(秋)の二組に分かれ香を聞き分ける、香道の遊びの一つだ
そうです。香木の香を聞き分ける遊びは、単に当てるという
ことではなく、高い精神性が求められる芸道とのこと。香を
ゆっくりと味わい、心耳を通して「古き森」に遊ぶのでしょ
う。掲句に明確な季語はありませんが、一句全体に、そこは
かとなく、春の情緒が漂っているようです。

〈お礼の言葉〉「竹林のせせらぎ」を担当して、七年以上。
初めは訳も分からず、三頁になったりしましたが、好きなよ
うに書かせて頂き、私にとっては思った以上に楽しい時間で
した。宗也先生にはこのような場を与えて頂き、感謝してい
ます。今までのたくさんのお礼状や励ましの声、そして静か
に受けとめてくださった皆様、本当にありがとうございまし
た。

一句一会     川嵜昭典


かの山のかの冬川をゆきて墓         古田 紀一
(『俳句四季』二月号より)
久しぶりにその土地を訪れるようなとき、その土地の人し
か分からないような名の山や川は確かにある。そんなときは、
あの山、あの川、と記憶を辿って進むことになる。一方で、
その山や川の姿形が以前のまま残っており、ゆえに調べなく
とも、やはりあの山、あの川、があってくれたという安堵感
もこの句からは感じられる。また、山を越え川を越え訪れる
墓は、おそらく代々伝わる小さな墓だろう。その小さな目標
に向かって、山を越え川を越えしていく作者の姿は、自身の
源流へ向かって旅する、人生の旅人のようにも映る。
水を重しと寒鯉の真つ平ら          上田日差子
(『俳句四季』二月号より)
魚は寒さが厳しくなるとだんだんと水底の方に沈んでい
き、沈んだまま、動かなくなる。試しに水に手を入れてみる
と、当たり前だがとても冷たい。この冷たさを「重し」とい
う塊の物体と捉え、動かない魚を「真つ平ら」と表現すると
ころに視覚的な味わいと俳味がある。そしてまた、魚にとっ
ての真実を突いているのではないかとも思う。理論的な、科
学的な正しさではなく、感覚的な真実を突くというのは、そ
もそも矛盾を抱えた人間にとって、むしろ自然であるように
も感じる。そこに詩情が生まれ、感動が生まれる。
木の根明く裏切者はすでに風         秋尾  敏
(『俳句四季』二月号より)
春先になると木の根元の雪から融け始めるというのは、太
陽の光を吸収した樹木の幹や枝の温度によるものだそうだ。
木の生命力に心が動く。
人の世に、裏切り、裏切られ、ということはままある。あっ
てほしくはないけれど、人と人との関わり合いで生きている
以上、避けられないものでもある。掲句はそんな裏切者を許
す、というよりも水に流す、というさっぱりとした心持が感
じられる。水に流す、という言葉もそうだが、水や、掲句の
ような「風」という自然の事物の名称を使うことによって、
自身の心を自然と同化させ、浮世の辛さを乗り切ろうとする
のは、実は人間の知恵だろう。「木の根明く」に、その耐え
し後の、心が解れていく作者の姿を見る。
秋深し筋書のなき靴の音           和田 洋文
(『俳句四季』二月号「冬の鍵」より)
行き交う人々の靴の音には、それぞれの目的がある。少な
くともその歩いている瞬間には、何かのために(歩くこと自
体も目的と捉えれば)歩いている。ただ、その先がどうなる
か、それは誰にも分からないし、人生には筋書はない。「秋
深し」にはそんな人間の姿の、切なさ、哀愁が詰まっている
と感じる。
恋猫の充電中のやうなかほ          野名 紅里
鶯を見てゐる場合ではないが         同
(『俳句四季』二月号「クロッカス」より)
「恋猫の」の句。恋猫の句は比較的、声やその姿を捉えた
句が多い中、顔をまじまじと捉えているところが面白い。し
かも「充電中の」顔とは、言い得て妙と思う。少し上気した
ような、それでいて静かに力を溜めているような、そんな顔だ。
「鶯を」の句。気にしないといけないもの、やらなければ
ならないことが多いにもかかわらず、鶯をじっと見ている。
ここには「恋猫の」の句とは逆に、上気しているような、力
を溜めているような作者の姿がある。「見てゐる場合ではな
いが」鶯や、それを取り巻く自然から何か力を得ようとして
いるのだろう。ネットワークの発展により、人と人との関わ
り合いが容易で安易になった現代だからこそ、周囲から全て
を遮断し、一人になる時間がないと、人は正常に生きていけ
ない。
リボン垂れ放題冬の生花店          辻村 麻乃
(『俳句四季』二月号「人の音」より)
冬の生花店はそれでなくても華やかだが「リボン垂れ放題」
の「放題」がとても面白く、かつ生花店のやや雑然としたよ
うすを生き生きと表している。生花店のひんやりとした空気
の中で、少し寒そうに垂れているリボンはまた、誰かのもと
に届けば、とても温もりのあるリボンに変わるのだろう。
冬蠅や吾をみくびるものは吾         橋本 喜夫
(『俳句四季』二月号「クリスマス」より)
蠅は、もちろん自分自身のことを蠅だと思って卑下してい
るわけではない。蠅なりの生き方で、天寿を全うする。それ
に比べて人間は、言葉や知恵を持ってしまったがために、自
分自身の価値や在り方を他と比べ、判断し、あきらめてしま
う。そんなことに気付かされ、はっとする句。また、「冬蠅」
の「冬」が、そんな、自分自身の意味を考えるのにふさわし
い季節でもあり、これから来る春に対する希望を感じさせる
ようでもある。