No.1105 令和6年5月号

井垣清明の書44

臨楼蘭残紙尺牘之一

平成14年(二〇〇二年)六月
第37回北城書社展(上野の森美術館)

釈 文

三月一日、楼蘭にて白(もう)し書す。濟逞白(もう)す。
違(たが)い曠(むな)しきこと(ごぶさた)遂に久し。
思企(思い)委積(蓄積)す。
十一月の書を(受け)奉(たてまつ)り、
具(つぶさ)に動静(状況)を承(うけたまわ)る。
春日和適なり。伏して想う、御其宜(御慈愛を)。

流 水 抄   加古宗也


茅花流しや貝塚を踏まば鳴る
貝塚や五指をもてもぐ桑苺
薫風や聖母像立つ熔岩の上
懺悔室出て聖段の薔薇に立つ
大梅雨や早々水浸く沈下橋
近くには赤き鉄橋五月川
鳳来寺
山百合に佇つ千段をのぼり切り
蝶乱舞して馬鈴薯の花ざかり
葭切や貝塚へ道折れ曲る
老鴬のしきりや六所山は雨
五月雨や梁(うつばり)太き農舞台
色鯉や東照宮に深き堀
天蚕の緑やうすき繭つまむ
下諏訪に万治仏あり五月雨るる
花栗の香を抜け小布施ミュージアム
優曇華や志功の裸婦の頬真つ赤
溝浚へちびし鉛筆泥に浮く
瓢亭にて
籐椅子や士郎の温み背に伝ふ
籐椅子の肘の艶こそ父のもの
紫陽花の大きな毬を家苞に
ぢぢばばの散歩や梅雨の中休み

真珠抄五月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


転がつて来し風船を持ち帰る       川嵜 昭典
山焼きの火叩き杉は身丈越す       酒井 英子
一棹で押し出す渡し水温む        市川 栄司
母もその母も触れたる雛飾る       石川 裕子
悴む手悴む手もて包みけり        加島 照子
春望やクレヨンで描く中華街       高濱 聡光
菜の花は心の底に届く色         鶴田 和美
甘噛みと本気のあはひ孕み猫       堀田 朋子
龍天へ拳にきつく巻くテープ       大澤 萌衣
春蘭や一人暮しをさりげなく       水野 幸子
さくらさくらゴム縄上手き転校生     春山  泉
まんさくや朝から箍を編む桶屋      堀場 幸子
汚水入るフクシマの海冴返る       石崎 白泉
能登復活祈るばかりや蒲団干す      三矢らく子
嫁ぐ娘にスノードロップ束にして     鈴木 恵子
腹這ひてつくしと話すわらべかな     浅野 博泉
蕗の薹この土手が好き風が好き      鈴木 玲子
犬連れて爺のハモニカのどかなる     浅野  寛
春風や色の明るき孫のくつ        加藤 典子
読み下す寺の箴言梅香る         工藤 弘子
鶏糞をたっぷり散布鍬始         岡田 季男
壷すみれ東吉野が恋しくて        安藤 明女
散歩の道少し増やして麦青む       服部  守
春の雨予定なき日は餡を煮る       琴河 容子
なめらかな手品師の指万愚節       笹澤はるな
図書館に畳の間あり春眠し        磯村 通子
草青む腕まくりして踏むペタル      岡田真由美
梅園に響くオーボエ二重奏        関口 一秋
公魚釣ビールケースを逆さまに      岡本たんぽぽ
卒業の手と手白線流しかな        松田美奈子

選後余滴  加古宗也


山焼きの火叩き杉は身丈越す         酒井 英子
九州・阿蘇山の山焼きを取材したようだ。阿蘇の山焼きは
言うまでもなく日本では最大の規模のもの。私は残念ながら
山焼の翌日、熊本入りし、熊本の俳人に山焼きの跡を見せて
いただいたことがある。まずは一気に大観峰までのぼり、車
を下りて、歩いて散策、その後、ゆっくり河口周辺を案内し
ていただいた。そのおかげで、英子さんの作品から、山焼き
の様子がじつにくっきりと復元することができた。
身丈を越す杉の枝で火を叩く様もいま見ているように想像
できる。「野焼勢子」「大切り道」など、野焼きの様子がじつ
に具体的に描写されている。そして、
山焼に漢手をあげ丸を描く
などの句によって、勢子衆にとって、厳しい作業であると
同時に、楽しい作業であることが見て取れる。
阿蘇の雄大さに圧倒された大観峰であったと同時に虚子の
怪物ぶりを、まざまざと感じた阿蘇だった。
菜の花は心の底に届く色          鶴田 和美
鶴田同人はじつに心優しき人である。
俳人の多くが美しい原風景を持っているように思う。和美
さんにとってもそうで、それは「菜の花」であったのだろ
う。「心の底に届く色」とは菜の花が大好きであるといって
いるだけでなく、「心を癒してくれる花」であると、素直に言っ
ていて心地よい。
蕪村の句に
菜の花や月は東に日は西に
があるが、江戸期の俳人であるにもかかわらず、いまなお
春になると多くの俳人の口から飛び出す一句だ。そして和美
さんの菜の花は、和美さんのものであり、他の人にはおかす
ことのできない菜の花であるところがじつにすばらしい。じ
つは、私の実家は西三河南部の広々とした三河平野にあり、
菜の花の季節になると、通っていた小学校は丘陵の上の西尾
城址にあり、そこからわが家の方向は一八〇度菜の花畑で、
三河湾にまでつづいているように見えた。朝夕、菜の花畑の
中を学校に通ったものだ。しかも、その菜の花畑からとれる
菜種で、わが家は菜種油を製造するのが生業だった。和美さ
んの俳句を見たとき、くっきりと私の原風景が甦ってきたの
がうれしい。
甘噛みと本気のあはひ孕み猫         堀田 朋子
猫も犬もときに甘噛みをすることがある。甘噛みはたいて
い飼い主に甘えたときにする行動なのだが、この句「本気の
あはひ」とある。孕み猫は、ときに野性に戻るのかもしれな
い。「孕み猫」の本性を鋭くつかまえて、過不足がない。
悴む手悴む手もて包みけり          加島 照子
この句もまた母性を見事に表現している。しかも、美しく
活写しているところがうれしい。冷たい手にふれて思わずわ
が手で包み込んだのだが、包んだあと、自分の手の冷たさに
気づいたのだ。咄嗟に出た自分の行動をおかしく思っている
のだが、母性が強い詩情を生んだ秀句。
春望やクレヨンで描く中華街         高濱 聡光
横浜の中華街にでかけたときの一句のようだ。横浜の中華
街は私も在京中には憧れのところで、二三度兄につれられて
いったことがある。少々、高価な食事だったように記憶する
が、エキゾチックな雰囲気でとても楽しい食事会であった。
この句、中華街を絵にするとしたら、その画材はなにがいい
か、つまり、油彩か、水彩か、はたまた岩彩か。クレヨンと
いう答に、思わず合点した一句だ。
龍天へ拳にきつく巻くテープ         大澤 萌衣
龍は春分にして天に登り、秋分にして潜む、という。そも
そも龍は想像上の動物だから、わかったようなわからないよ
うなところはあるが、要するに春分の頃になると、龍も雷も
大いに元気を出すらしい、と想像するのだろう。即ち、俳人
は龍や雷が好きで、いろいろ、想像をたくましくしたのだろ
う。ちなみにボクサーは拳にテープをきつく巻く、そうする
ことで指を守る効果があるのか、気合いを入れるためにそう
するのか、「龍天へ」の季語を借りて、気合が天に通じるよ
うな気にさせる一句だ。結果はどうだったのだろうか。
卒業の手と手白線流しかな          松田美奈子
岐阜県のある高校で、「白線流し」という催しが行われて
いたが、このコロナ流行によって中断されていた。それが今
年、復活したと聞いた。セイラー服に縫いつけられた白い
テープと学帽に付けられた白いテープをはがして、それをつ
なぎ、飛騨川に流すというものらしい。いじらしいというか、
高校生らしい純情さがなんとも美しい。美しい絆、といって
いい行事だ。

木漏れ日の小径  加島照子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(三月号より)


墨の香の一句の力寒見舞           荻野 杏子
寒見舞には色々なパターンがありますが、いづれの場合も
相手を気遣い思いやる気持ちに変わりありません。メールや
ラインには及ばない毛筆の一句に励され力付けられます。
読み手の心に沁み入る様な優しく力強い句を詠んでみよう
と思いを新たにしました。
一暴れして糶を待つ鰤の面          酒井 英子
寒鰤は脂がのっていて一番美味しい時季です。生きが良く
跳ねて暴れていたのがいよいよ観念し、糶の時を待つ鰤の面
に焦点を当てたのがとても面白く印象的です。
我が家の食卓にも度々登場する鰤はすでに切身になってい
るのですが、どんな面構えをしていたのか考えてみるのも楽
しくなります。
冬ざれや有楽の竹に花咲けり         鈴木 帰心
犬山の有楽苑は何度か訪れましたが、竹の花が咲く貴重な
瞬間に出会えた事はありません。竹の花は六十年から百二十
年周期で開花し一生に一度見られるかどうかと言われます。
竹の花が咲くと不吉の前兆とか、一新する為の吉兆とか諸説
ありますが願わくば後者の方に期待ををしていたいです。
足跡は子連れ熊なり雪解谷          市川 栄司
昨年あたり熊の人的被害が過去最多のペースと言う報道が
連日の様にありました。人と熊との境界が変化し餌を求めて
街中迄下りて来る危険性、冬眠中に出産し小熊を連れて餌を
求めている母熊の必死な生き方にも理解しつつ、今後どのよ
うに人間と共存していくのか模索が続いています。最良の解
決策が早く見つかるのを願っています。
着ぶくれて犀の鎧の継目見る         鶴田 和美
動物園で飼育されている動物に本来の野性の姿を見る事は
難しいのですが、形態をじっくり観察する事は出来ます。犀
の皮膚はあらゆる動物の中で最強の硬さです。だぶついた鎧
の様な皮膚が折り重なっている所を継目と表現されたのが面
白いです。大人になってからの動物園は、子供の時とは違う
発見が沢山あってまだまだ楽しみは続きそうです。
ひともじの突き出て男のエコバッグ      斉藤 浩美
葱がエコバッグに収まりきらず飛び出している光景はよく
見かけますが、男性のエコバッグがユニークで葱を折ったり
曲げたりせずにそのまま袋に入れた優しい気持ちが思いやら
れ、ほのぼのとした気持ちになります。
さて、今夜の献立は何かな、男の手料理が楽しそうで期待
されます。
いらご崎冬潮黒き底力            堀田 朋子
太平洋に突き出した伊良湖崎の冬は特にうねりも大きく
荒々しい。この冬潮の事を黒き底力と表現されたのはさす
が。季節毎に見せる海の姿はそれぞれ素敵ですが、海本来の
強さを見せるのはきっと冬だろうと思いました。
散紅葉野神をくくる御神木          山田 和男
日本古来の神道には教祖も教義も社殿もない原始的信仰の
起源とされ、農業の守護神が「野神」と云われています。樹
木を祀っているのは人々の拠所となっているのでしょう。御
神木に手を合わせる人々の素朴な祈りに自然に溶け込む営み
を感じます。
鴉鳴く声も御慶と受け取りて         奥村 頼子
新年を祝う挨拶の言葉を鴉の声に聞くとは、何と楽しい一
年の始まりになったのでしょう。きっといつもの鴉が特別美
声で鳴いてくれたのだと思います。清々しい一年の始まりを
迎えられた事に鴉は貴重な役目を果たしました。
もの言へぬ嬰に声かけ日向ぼこ        米津季恵野
赤ちゃんが話す言葉は聞く事から始まると言われ、優しい
声掛けはとても大切です。作者がそっと声を掛ける情景が目
に浮かびます。日向ぼこの季語を更に味わい深くして、ほの
ぼのと暖かさが満ちて来て読み手も心あたたまる一句に
なっています。
干芋を虫養ひに三ケ日            髙𣘺まり子
私も干芋は大好物でいつも買物籠に入れてしまいます。食
が細くなりがちな高齢者には、間食は欠かせないものである
と信じて、今日も美味しい間食を三度の食事とは別腹を、満
たす為に食べています。
撥高く上げてじよんがら初稽古        中野まさし
津軽地方の「上河原」と言う地名から来るじょんがらは、
津軽三味線が有名です。以前吉田兄弟のコンサートで聞いた
事がありますが、太棹に撥を叩きつける打楽器的な奏法は、
テンポも速く迫力満点でした。

十七音の森を歩く   鈴木帰心


「若竹」三月号に引き続き、前半は、『俳句年鑑 二〇二四
年版』(KADOKAWA)の「諸家自選五句」の掲載句の
中から、異なる作者の作品を並べて鑑賞する。
先生は正しいしかしねこじゃらし        田代 青山
包丁を拒み弾ける初西瓜            阪田 昭風
(『俳句年鑑二〇二四年版』より)
《「ねこじゃらし」の句》 学校という場所は、「生徒は教師の
指示に従うこと」、という力学がどうしても働いてしまいが
ちだ。ただ、思春期の心に、教師の正論がまっすぐに響かな
いことがある。教師の方も生徒の気持ちを分かってやれない
場合もある。季語「ねこじゃらし」に、そんな正論をさらり
とかわそうとする十代の心の動きが見える。
《「初西瓜」の句》 掲句を読み、あるオーケストラの団員か
ら聞いた「ある計画」を思い出した。
彼の所属するオーケストラでは常任指揮者と団員たちの間
に確執があった。それである日のコンサートで、団員たちは
聴衆の前で指揮者に恥をかかせようと密かに話し合った。コ
ンサート当日、最後の演目の交響曲を演奏し終え、聴衆から
拍手喝采が起こった時、指揮者は団員たちに起立を求めた。
しかし、彼らは立つのを拒んだ。何度も指揮者が立つのを促
した後、もう一度促そうとした直前に彼らはすっくと立ち、
指揮者に肩透かしをくらわせた(筆者はその現場を目撃し
た)。団員の企みは成功したが、その後、両者の関係がどう
なったかは知らない。
掲句の西瓜も、包丁の「意図」に反して自ら弾けた。まる
で「ねこじゃらし」が外からの力をかわすかのように。だが、
この句の「初西瓜」、いかにも美味しそうだ。
母亡き家父亡き庭や草紅葉           荒井千佐代
月光の有り余りたる生家かな          石倉 夏生
(『俳句年鑑二〇二四年版』より)
《「草紅葉」の句》 実家を訪れた作者。両親はすでにこの世
を去り、実家にいると、作者の心に様々な思い出が去来する
―とりわけ、家事をしている母の姿、庭いじりをしている父
の姿が思い出される。「草紅葉」の斡旋が胸を打つ。
《「月光」の句》 「有り余りたる」の措辞から、あるいは、こ
の作者も、ご両親が亡くなって空き家となった実家にいるの
かもしれない。本来ならば、父を、そして母を照らすはずの
月光が、その相手を失い、光を持て余している。「有り余り
たる」の措辞からその切なさが惻々と伝わってくる。
無花果の深みに沈みゆく指よ          佐藤 郁良
玄関の無花果を捥ぐ喪服のまま         今井  聖
(『俳句年鑑二〇二四年版』より)
《佐藤氏の「無花果」の句》 よく熟れた無花果なのだろう。
皮を剥こうとしたら、指が吸い込まれるかのように無花果の
深みに沈んでいった。
《今井氏の「無花果」の句》 無花果が実をつけるころ、身内
を失った。葬儀を終えて、骨上げも済ませ、家に帰って来た。
身の置きどころのないまま、玄関の近くにある無花果の木か
ら実を一つ捥いだ。そして、やおら、自分の親指をその無花
果の奥に沈ませていった。悲しみをその無花果の中に埋め込
もうとするかのように。
二つの句を並べてみて、そんな情景が浮かんできた。
今川焼の箱しなしなと渡さるる         木暮陶句郎
(『俳句年鑑二〇二四年版』より)
出来立ての今川焼を箱に入れてしばらくすると、湯気で箱
がしなしなとなってしまう。掲句から、あの箱の感触、さら
に、少し冷めた今川焼のぬくもりも伝わってくる。
作者へのお土産に、と今川焼を買ってきた友人が、今川焼の
入った柔らかくなった箱を作者に手渡す時の、少し気まずそ
うな、また、残念そうな顔まで見えてきて、俳諧味のある句だ。
草餅や琴の師であり叔母であり         如月 真菜
(『俳句年鑑二〇二四年版』より)
叔母に琴を習っている作者。稽古の時は、叔母を師と仰
ぎ、尊敬語を使う。叔母も作者を他の弟子と区別することは
しない。しかし、稽古を終えて、お茶の時間となると、二人
は叔母・姪の関係に戻り、言葉もくだけたものに変わる。季
語「草餅」から、そんなお茶の時間の和やかな雰囲気、さら
に、二人の仲の良さが伝わってくる。
なつかしき香水匂ふ距離に会ふ         大高  翔
(『俳句年鑑二〇二四年版』より)
この句の眼目は「距離」という措辞。確かに五感には、そ
れを最も心地よく感じさせる「距離」というものがある。作
者は、すれ違った人のつけている香水に懐かしさを感じたの
だが、その匂いには、押しつけがましくもなく、また気づか
ないほどでもない「距離」で出合えた。以前にもこれと同じ
「距離」で作者はこの香水に出合ったのだ。
非常に感覚的な句である。
物捨てし心細さよ涼しさよ          塩川 京子
(『俳句年鑑二〇二四年版』より)
「断捨離」の心境を十七音で的確に描いている。