No.1106 令和6年6月号

井垣清明の書45

荘子語

平成14年(二〇〇二年)十月
板橋区書家作品展(板橋区立美術館)

釈 文

不平を以(もつ)て平にせんとすれば、其の平や
平ならず。(『荘子』列禦冠篇)

流 水 抄   加古宗也


語り部の爺や即ち梅雨炉守る
硝煙の香や濃し梅雨の合掌家
五箇山は硝煙の里梅雨鴉
梅雨炉守る爺や平家の裔と云ふ
梅雨晴間絞りの町の藍暖簾
路地奥に硝子工房切子買ふ
夏燕楽市楽座発生地
菜の花忌好きな街道われにあり
巣燕や檜笠売る妻籠宿
老鶯や六所山上雨ぎらふ
フジコヘミング好きと云ふ妻梅雨末期
薫風や句友と見上ぐ時刻表
裏山に墓持つ旧家桑苺
はまゆふや野間にお吉の悲話のこる
優曇華や梯子はづさる女中部屋
石臼や布袋葵はまだ蕾
子雀や掘抜き井戸に竹の蓋
お吉には入水の話浜薄暑
涼風やポンプ井戸持つ通し土間
ラムネ玉鳴らせば昭和身辺りに

真珠抄六月号より 珠玉三十句

加古宗也 推薦


逃水や踏切に鳴る警報器       工藤 弘子
背の子抱く子へ保育士のしやぼん玉  池田真佐子
野遊びの記憶鼻孔に足裏に      髙𣘺まり子
琵琶湖の波に乗り慣れて残る鴨    加島 照子
湖北春小さき畑もつ隠れ里      酒井 英子
水音を小鬼田平子たちと聞く     田口 茉於
下萌の径海女小屋の脇へ出し     市川 栄司
卒業子待つ花道を整えて       竹原多枝子
手を浸す湖北の水も温みけり     乙部 妙子
八重桜古き校舎を背負ひたる     荒川 洋子
湖にもの問ひつつ春のかくれ里    江川 貞代
植木市枝の曲がりしものを買ふ    川嵜 昭典
屋台蔵の梯子に朝のつばくらめ    荻野 杏子
凧上げるための空あり佐久の島    辻村 勅代
肩車の子の指示きびし巣箱据う    大杉 幸靖
田水張る夜通し水の走りけり     飯島 慶子
地震あとの千の棚田を打ち返す    安井千佳子
影堂へ迂回路辿る花曇り       服部くらら
ひと掴み番茶のおまけ弘法忌     堀場 幸子
花冷の静脈瘤や手の甲に       石崎 白泉
塀のなき渡岸寺春はどこからも    長坂 尚子
万愚節玄関になぜ駐在さん      鈴木まり子
鯉のぼり泳がせ峡の無人駅      白木 紀子
老人が老人叱り春寒し        米津季恵野
朝一番物種蒔きに庭に出る      畑中 淳子
春光や湖上を渡るロープウェー    高柳由利子
蕗味噌をぶら下げて友信濃より    鈴木 恵子
のんびりとゆく消防車あたたかき   坂口 圭吾
白木蓮や傷つき易く折れ易く     鈴木 玲子
帰らざる二羽の白鳥葦を焼く     堀口 忠男

選後余滴  加古宗也


背の子抱く子へ保育士のしやぼん玉      池田真佐子
保育士という仕事は大変な仕事だ。他人の子供を育てるこ
との責任は単に仕事だからと割り切ることはできない、何と
いっても人間を養育することの重大さは、ただ子供が好きだ
から、と割り切ることなどできない。健康で、しかも精神的
にも素直ですくすくと育てなければならない。ここにあげた
句は、保育士が一人をおんぶし、一人を抱っこしているのだ
ろう。「スキンシップ」という言葉があるが、保育士のむず
かしさは、この「スキンシップ」という心掛けをいつも忘れ
てはならない、ということだろう。
他人の子供でも、自分の子供と同じように愛情を持って育
てること。独身の保育士でも、自分に子供ができたときを思
い養育しなければならない。そんなに遠くない昭和時代には
保育士さんのことを「保母さん」と呼んだ。それがどうして
「保育士」になってしまったのだろうか。最近は男性の保育
士が生れるようになったことから、女性も保育士と呼ぶよう
になったのだろうか。私にはどうも、その辺りがすっきり受
け入れられない。そのくらい「保母」というのは素敵な言葉
だった。
背の子にも、抱いた子にも平等にしゃぼん玉が見られるよ
うに懸命な動きをしている保母さん(あえてそう呼ぶ)そこ
に保母さんの温かな愛が見えてくる。母即ち無償の愛をくれ
る人。そんな思いは令和の社会から忘れられようとしている
ような気がする。
手を浸す湖北の水も温みけり         乙部 妙子
五月号の巻頭カラーページにあるように、三月二十八日、
若竹一一〇〇号記念事業の一つとして、「湖北・渡岸寺」及
び随筆家・白洲正子の「隠れ里」に出てくるやはり湖北の菅
浦の里を訪ねる吟行会を行った。掲出の句はその折りの連作
の一句だ。この日はじつに穏やかな日で、この一連の句によっ
て隠れ里・菅浦のいまがすっきりと描写されている。「水も
温みけり」によって菅浦の平穏な暮しぶりがじつに自然に見
てとれる。
菅浦は農機具の大手メーカー・ヤンマーディーゼルの創業
社長が生まれたところで、いまも、菅浦の人々の暮らしを支
えているように見える。
味噌汁の具に一切の春の鮒
昼食は琵琶湖で取れたという天然鰻の丼だった。
八重桜古き校舎を背負ひたる         荒川 洋子
歳時記で「桜」の項を見ると、そこに出て来る季語の多さ
に驚く。例えば文庫本の角川俳句歳時記・春・五版を見ても
「桜」と見出し語につづいて、七種の桜が、すぐその項の後
に「花」という見出し語が出てくる。「花盛りにつづいて
十一の季語が並ぶ。さらに見出し語として「山桜」「遅桜」「残
花」「落花」などが出てくるが、歳時記の中で一番スペース
を取っているのが桜だ。日本人はそれだけ桜が好きだという
ことだろうが、その分、桜に対する思いも深く、複雑だ。
山桜や染井吉野とはすっかり趣きを異にするのが八重桜
だ。京都の醍醐寺、大阪造幣局の通り抜けが有名で観光名所
にもなっている。そして、掲出の桜は学校のシンボルである
と同時に作者にいっぱいの思い出をくれる桜のようでもあ
る。八重桜は何といっても優しい、そして温もりをくれる花
だ。
蕗味噌をぶら下げて友信濃より        鈴木 恵子
蕗味噌は炊きたてのご飯の上にちょっと乗せていただくの
が一番うまい。そして、どういうわけか、蕗の薹は信州信濃
の田園で摘み取られたものが一番おいしいような気がする。
それは単純に依怙贔屓に過ぎないだろうが、信州という風土
が好きゆえにそこで生まれるものはみんな好き、なのだ。作
者はそんな信州に友人を持っている。そこには偶然以上の何
かがあるように思われる。私が信州が好きなのはそこに懐の
深さと優しさがあるからだと思う。
野遊びの記憶鼻孔に足裏に          髙𣘺まり子
「野遊び」という季語はじつに暖かい季語だと思う。そこ
に登場するのは家族であり、友人だ。野遊びの楽しさはそこ
では心がすっかり解放されているからだろう。そうした状況
の中では、春の花や草、あるいは風の香りが鼻孔をくすぐる。
凍土はいつの間にか暖められ、一歩一歩が柔らかく弾む。五
感が見事に融合した一句だ。
逃水や踏切に鳴る警報器           工藤 弘子
角川の文庫本歳時記は「逃水」の解説に「路上や草原で、
遠く水のように見えるものに近づくと、また遠ざかって見え
る現象」と解説している。つづいて、「武蔵野の名物とされ、
古歌にも詠われている」とある。さらに「蜃気楼現象の一種
と考えられる」と続く。
真夏の極暑の路上を自動車で走行していると、しばしば路
上に水をまいたような景色が現れるが、それがいま様の逃水
だろう。それは多くの場合眼前に現れる。逃水を追ってゆく
と警報器の前へ。はっとした場面を俳味と共に詠み切ったと
ころはベテランのうまさだ。

木漏れ日の小径  加島照子

青竹集・翠竹集作品鑑賞(四月号より)


白梅や鳴き龍鳴かす相国寺          江川 貞代
足利義満時代に創建された日本最古の法堂「相国寺」。狩
野光信作「蟠龍図」八方睨のどこから見ても見られている様
な龍の目が特徴的です。天井はむくりと呼ばれる様式で、中
央が少し上に向かっている為堂内のある場所で手を叩くと音
が反響し、まるで龍が鳴いている様に聞こえます。
白梅の季語の取り合せが気品高く、この句を格調高くして
います。
靄脱ぎし島の全景寒日和           工藤 弘子
この光景はあの記念大会会場で、出席者全員がホテルから
見た風景ではと思いました。まさに靄を脱ぐとはとても良い
表現で寒日和の素晴らしい三河弯の景色に皆が感嘆の声を上
げました。天気まで味方になって一一〇〇号記念を祝ってく
れた様に思いました。
初蝶来よきもの見しと跡を追ふ        高橋 冬竹
初蝶を見た時の新鮮な喜びをそのまま、蝶を追ってみると
言う好奇心旺盛な作者の素直な気持ちに共感が持てました。
何歳になっても好奇心を持ち続けていくのはとても大切な事
だと思っています。分かりやすく読み手に光景が伝わってく
る句だと思いました。
節分のけふ空まさお雲ましろ         服部くらら
節分の日は空模様も改めて新しく感じたくなります。
春を待っている作者の気持ちは誰しもが持っています。
空まさお雲ましろと言うリフレインが楽しくて、読み手も思
わず空を見上げてしまいそうな、優しい語り口調がとても素
敵に思いました。
浮鳥の十羽養ふほどの池           堀田 朋子
浮鳥を養うと言う表現はなかなか思い付きませんでした。
狭い池でもそれなりに鳥が英気を養っていると、厳しい自然
の中で生きている鳥に教えられた様に思いました。
人も又それぞれ違う環境の中で、精一杯生きて行くという大
切さをふと感じさせられる、とても意味深い句だと思いまし
た。
如月や水濁しては沈む鯉           平井  香
寒の頃は鯉は水の底でじっとしていますが、春の気配を感
じる頃鯉も動き出して来たのでしょう。水濁しては沈むと言
う読み手の細やかな写生が生きています。
水温む頃になれば鯉は元気に泳ぎ回るので、もう少しの辛抱
かと思わせる一句になっています。
地震の地に頭を起こし黄水仙         髙𣘺まり子
元旦の能登地震始め最近は各地で地震が多発しているのが
気になっていますが、予測が難しいと言われる地震の為の対
策は日頃から少なからず必要性を感じています。
厳しい被災地の現状は目を覆う程ですが、そんな場所にも
野水仙が咲いているとは、疲れた人々の日常を取り戻す光と
なりそうで嬉しくなってきます。
如月や榛名颪の凜と来て           平田 眞子
群馬県は赤城山、榛名山、浅間山、妙義山等豊かな自然が
残る有数の山岳県です。それぞれの山の名の付いた颪は如月
の頃は凜とした表現された力強さや程よい緊張感が、感じら
れ如月の季語に良く合っていて厚みを増している様に思いま
した。
モーツァルトをいいねと言ふ子木の根明く   川嵜 昭典
難しい理屈も説明もなくても、親子でモーツァルトを聴い
ているほのぼのとした時間が目に浮かびます。木の根明くと
いう季語が子の将来に向けた明るい希望や楽しみを感じさせ
どの親の気持ちも代弁している共感を覚えます。
葉牡丹や右利きらしき家の猫         堀田 和敬
まだ研究途中ですが統計的には面白い成果が見られます。
猫の利き手は雄が左手を、雌は右手を使う傾向が見られるそ
うです。利き手と性格の相関性が解明されると、飼育する方
にも猫との距離が近くなる様な気がします。只どちらの利き
手であっても可愛さに変わりはない気もしています。
網繕ふ炭火のぬくみ手に移し         中野まさし
作者の訪ずれた大浜漁港は天草市有明町にあります。
漁網の補修は手縫いでひと針ずつ丁寧に補修する地道な作業
です。寒い時期は特に厳しさを想像できます。
漁が出来ない時は網を繕う。何もうまく行かない時こそうま
く行った時に必要な準備をしておかなければならないと、漁
師の無言の作業に頭が下がる思いがします。炭火のぬくみを
手に移すと言う細やかな写生がとても生きています。

一句一会     川嵜昭典


春の雪春の空から降りてくる         岩淵喜代子
(『俳壇』四月号「赤子」より)
当たり前と言えば当たり前のことなのだが、この当たり
前、というのが近頃ではむしろ嬉しい。おそらく季節の巡り
も、人々の過ごすスピードも、以前より速く、そして複雑に
なっているからだろう。「降りてくる」という表現は、降っ
てくる、ではない。降ってくる、と表現すれば、それは作者
にとって他人事であり、身の回りの出来事の一つに過ぎなく
なるが、降りてくる、と表現すると、それは春の雪という不
意の来訪者を発見し、心を開いて迎い入れる、そんな気持ち
を感じさせる表現となる。いずれにしろ、当たり前のことに
むしろ驚くような掲句は、とても新鮮に響く。
直情は長州の血よ竜の玉           村上喜代子
(『俳壇』四月号「この世よし」より)
自分の、血のルーツを意識するときがある。それは自分と
他人とを比べ、自分の性格を意識したときだ。そんなとき、
自分が現に生まれた土地はもちろんだが、自分の父母、祖父
母などの出身地までも強く意識する。そしてそこに救いを求
めるような、答えを求めるような、そんな気持ちになり、ま
た安堵する。この安堵は、誰にも譲れない類のものであり、
それが掲句では「竜の玉」という季語と共鳴しているようで
おもしろい。たとえ人が進化したとしても、人は必ず人から
生まれ、その人も人から生まれ、という生き物の法則は絶対
のものである。だからこそ「竜の玉」のような信念を胸の内
に持つことは大切なことなのだろう。
蜜蜂も湾も働く坂の町            中矢  温
花の宴安全靴のまま来る           同
(『俳句四季』四月号「裸眼」より)
「蜜蜂の」の句。港町の快活さと明るさを描き出している。
ことに「湾も働く」と、全体の動きを詠んでいるところに、
町全体の活気が伝わる。蜜蜂の行動がそこにユーモアを添え
ている。「花の宴」の句。桜の花の、非日常的な美しさの中
に、日常的な事物を描いているところに魅力を感じる。
二句ともに、鮮やかな色彩の中に、働く人々の日常の息遣
いが感じられ、新鮮な句だ。
皿に水はじけて寒の明けにけり        常原  拓
(『俳句四季』四月号「薬包紙」より)
どの季節の到来もそれぞれに嬉しいものではあるが、春の
到来の、嬉しく、ほっとする気持ちは格別のものだろう。寒
明けの時期は、まだ気温も低く、世間一般では冬の名残が強
いが、俳人は寒明けと聞けば、心に火が灯ったようになる。
掲句の「水はじけて」は、そんな気持ちが表れている表現だ
と思う。水の二三滴が、皿の上ですっと滑る。いつもの風景
と言われればそうだが、寒の明けた今日はどこか動きが違
う、そんな気持ちだ。それを「はじけ」と表現している。さ
さやかな事象に、大きな心の動きを見出している。
リラ冷えの椅子を詰め合ふチャペルかな    寺澤佐和子
花にゐて蝶々吸ふか吸はるるか        同
(『俳句四季』四月号「巫女舞」より)
「リラ冷えの」の句。「椅子を詰め合ふ」の表現に、そんな
に広くないチャペルに人々が集い、静かに時を分かち合って
いるようすが伝わる。ことに「リラ冷え」の、少し引き締まっ
た、かつ厳かな空気感は、その季節、その場でしか得ること
のできないものだろう。
「花にゐて」の句。躑躅か何か、ともかく蝶が自身より大
きな花の中で蜜を吸っている。何気ない光景だが、よく見れ
ば花の方が蝶を包み込み、一飲みにしようとしているかのよ
うだ。そんなことは有り得ないのだが、そんなことを感じさ
せるほどに花からも豊かなエネルギーを感じる。自然の営み
の大きさと、妖しさを読者に抱かせる句だ。
春愁のワイングラスの底にあり        池田恵美子
(『俳句四季』二月号「ロマンスカー」より)
春に包まれながらも、どこか一人、季節から取り残された
ように感じるときがあるのはなぜだろう。ワインを飲み干せ
ば、その空のグラスに寂しさを見出す。この寂しさはどこか
ら来るのだろうと考えても、心当たりがあるような無いよう
な、ふわふわとした気持ちになる。ただ、「春愁」であるの
で、秋思に比べればそんなに深刻なものではない。深刻では
ないが、一方で、深刻ぶりながら自分の一人分の重さを噛み
しめて時を過ごす。春はそんな季節だ。
母の忌のめぐりくる雛飾りけり        髙橋 千草
(『俳句四季』四月号「日脚伸ぶ」より)
雛人形を飾る。そのときに思い出すのは、昔、その人形を
母が飾ってくれたことだ。雛人形や五月人形の嬉しさは、父
母から、もしくはそれより前の代から自分に渡ってきたこと
を実感できることだ。それは自分がやはり、親と、それ以前
の代と繋がっていることを、改めて信じるときでもある。